えりりん

初めまして。えりりんと申します。どうぞ、宜しくお願い致します💓

記事一覧(20)

私の好きな家具

皆様、こんばんは。えりりんです。今回のテーマは、「私の好きな家具」です。皆様は、どんな家具が、お好きですか?私達、現代人の、一般的な日本人家庭の中には、色々な家具が、存在します。一口に家具と言っても、色々な家具が、存在しますよね。まず、大きく分けても、伝統的な、日本古来のタイプの和製家具(わせいかぐ)と、海外から伝わった、外国由来のタイプのもの。一口に、海外と言っても、日本と同じ、アジアに属する国の外国も在れば(あれば)、西洋から、日本に伝わったタイプの物も、在ります(あります)。私達日本人は、基本的に、伝統を大切にしますが、だからと言って、現代の一般的な、日本人の家庭の中に存在する家具は、日本古来の伝統的な家具しか、存在しない訳では、在りません(ありません)。現代の、一般的な日本人家庭の中に存在する、一般的な家具は、伝統的な日本古来の家具である、和製家具を使っている家庭は、非常に少なく、現代の日本人家庭の中で、一般的に使われているタイプの家具は、海外から伝わった、西洋タイプが、とても多いです。ですが、私は、その事実に対して、どうのこうの、言うつもりは有りません(ありません)。何故なら、誰にでも、色々な面で、色々な好みのタイプと言うものが、存在するからです。もちろん、私にも、色々な面で、色々な好みのタイプが、有ります。ですが、今回のテーマは、「私の好きな家具」がテーマですので、今回は、家具に関する好みに限定します。そうしないと、私が本来、伝えたい事から脱線して、別の話に成りやすいからです。「私の好みの家具」は、「和製家具(わせいかぐ)かどうか?に関わらず、収納家具(しゅうのうかぐ)が、大好き」です。それに、「おしゃれな和紙で作られた、手作り和製タイプの収納箱(しゅうのうばこ)も、大好き」です。私が今、住んでいる、川棚の私の部屋には、もらい物ですが、「私好みの、手作りタイプの、おしゃれな和紙で作られた、和製タイプの、収納箱」が、有ります(あります)。私は、他人様(ひとさま)から貰った、このおしゃれな和紙で作られた、手作り和製タイプの収納箱を、私の部屋に置くため、自分の部屋のどこに置くか、真剣に悩んで、当時の私が出した結論が有ります。私が部屋に居る時は、たいてい、自分の部屋のベットにいるか、自分で買った、折りたたみ式の、テーブルと椅子の有る場所で、何かをしている事が多いので、私がベットにいる間に、確実に見える場所に置こうと思い、苦手ながらも、少し、その部分を片付け、お気に入りの、おしゃれな和紙で作られた、和製タイプの収納箱を、私の部屋に置きました。そしたら、そのアイテムを、私の部屋に置いてから気づいたのですが、どうやら、私には、私の部屋に、私好みのアイテムが有るのと、無いのとでは、自分の部屋の片付けに関する、モチベーションに、直接、影響してしまう事が、分かってきました。でも、良く考えてみれば、当然の事かも知れません。何故なら、私は、自分の苦手な方付けを克服する為、片付けに関する、色々な本を読んで来ました。その中でも、片付けに関する色々な本が有る中で、「比較的、私の考えに近い、片付けに関する本」に、出会いました。それが、「こんまり流、ときめく片付けの魔法」の本です。私は、昔から、自分の部屋を片付けるのが、とても苦手だった為、自分の苦手を克服する為、自分なりに、片付けに関する本を、自分で買ったり、他人様から貰った本を読んだりして、勉強しました。そして、片付けに関する、色々な考え方が有る中で、一番、私の考えに近い、片付け方法の本に出会いました。それが、先ほどもお伝えした、「こんまり流、ときめく片付けの魔法」の本です。私は、「私の両親や、私の肉親、私の親族達から、いつも、言われていた事の一つに、物を大切にする事」が、有ります。その為、「私は、物を捨てる事が、かなり、嫌い」です。それに、「私の場合、2017年に、山口県入りする直前までの私は、それまで、物を必要以上に捨てなかった為、私が物理的な事で、物に関する何かに対して、困った時は、いつも、私が持っている物に、助けられて来ました。」「その為も有り、私は、物を必要以上に捨てる事が、かなり嫌い」です。ですが、「自分の部屋をキレイにする為には、ゴミを捨てたり、整理整頓や、片付けをする事は、とても大切」です。でも、一口にゴミと言っても、色々なタイプのゴミが、この世の中には、存在します。でも、それは、普段、私のブログを読んで下さっている方々も、私のブログを読んで下さっていない方々も、ご存知ですよね。私は、良く思うのですが、物理的なゴミって、たとえ、まだ使える物でも、ゴミとして捨てられてしまう物は、何故なのか、ずっと、疑問に思って来ました。 でも最近、一つの可能性に出会いました。それは、ただ単に、物を所有している方々にとって、今現在(いまげんざい)、物理的に、必要とされていないだけ!の存在なのでは?と。だって、皆様、ご存知の筈ですよね。皆様、実際、今迄、して来ている筈ですよね。まだ、物として、使えるのに、その時点での自分が、もう使わないから、もうゴミとして捨てる!と言う、決断と、行為を。私は、子供の頃から、良く、両親から、片付けしなさい!とか、整理整頓しなさい!とか、言われて来ました。実際問題、自分の部屋かどうか?に関わらず、部屋の整理整頓や、片付けは、確かに、大切です。でも私は、いくら、片付けや、整理整頓が必要だからと言って、毎回、必ず、物を捨てる必要は無い!と、私は思うのです。何故なら、今迄、自分が持っていた、まだ使える物理的な存在である、物を捨てる!と言う事は、それを選んだ時点での自分が使った、物を選ぶ為の時間・お金・精神的エネルギーの全てを、それを捨てる!と言う、行為そのものによって、それを、ゴミとみなした!と言う事に、成るからです。もちろん、それが、もらい物として、自分の手元にやって来た場合は、それを下さった方々が選んだ時間・お金・精神的エネルギーの全てを、ゴミとみなした!と言う事に、成って来ます。もちろん、自分がゴミとして認識した物を捨てる事は、確かに、必要な事です。でも、だからと言って、むやみやたらと、物を捨てれば、自分の部屋がキレイになった!とか、自分の部屋が片付いた!とか思うのは、間違っている!と、私は思うのです。私がこんまり流、片付けの魔法の本の中にある、こんまり流、片付け術を支持するのには、それなりの理由が有ります。私がこんまり流、片付け術を支持する理由1、自分にとっての、お気に入りしか、残さない事。2、自分にとっての、理想の家や、自分にとっての、理想の部屋や、自分にとっての、理想の自分の姿を思い描く事。3、自分勝手に、自分と一緒に暮らしている方々の持ち物を、捨てない!と言う事。4、自分が残す!と決めた、グレーゾーンの物は、堂々と使う!5、自分が捨てる!と決めたものは、感謝をしてから、捨てる!6、片付ける!と、整理整頓!は、違う!!以上の理由で、私は、こんまり流、片付けの魔法の本が、私が今迄読んだ、片付けに関する本の中で、一番、気に入っている、片付けの本!と、成っています。こんまりさんの片付けの魔法の本以外の、本の内容は、確かに、片付けをする必要性や、片付けに関するあらゆる方法が、所狭し!と、沢山、書かれていますが、こんまり流、片付けの魔法以外の、片付けの本の内容は、片付け=部屋に有る邪魔な物を捨てる!と言う、判断基準でしか、書かれていないのです。「部屋を片付ける気に成った」という事は、「キレイになった部屋で、何かをしたいから、部屋を片付けようと思った」筈です。それなのに、キレイになった部屋で使うべき物と、部屋はキレイに成ったけど、これからの自分が持っていても、あまり使う必要性が少ない物は、誰にでも、有る筈です。それなのに、キレイになった部屋に、本当に残すべき物についての記載は、一切されていない為、片付けが元々得意な人でさえ、片付けをする事=自分の日常生活において、自分の部屋をキレイにする為の邪魔者を見つけて、その邪魔者を排除すること!が、一般的な、部屋を片付ける際の、判断基準&目的にしか、成っていません。(自分の部屋にある物を、敵とみなしているのと、同じ事。ひいては、戦争を、助長する行為そのもの!)私は昔から、話下手&説明下手だったので、その事実を、こんまりさんの様に、自分の口や、自分の書いた本で、説明出来るレベルでは無かった時代も、有ります。(私はまだ、出版出来るレベルの、自分の本を、書いていません。)ですが、こんまりさんは、違います。こんまりさんは、ご自分の書籍の中で、その辺に関して、とても詳しく、書かれています。私は、そんな、こんまりさんの考えに共感し、この本だったら、私の考えに一番近い、片付けの本だ!と、認識し、その時点での私にとって、一番、実行しやすい部分から、私の生活パターンに取り入れました。そのおかげで、2017年に、私が山口県入りする直前までの私の、洗濯物をたたむたたみ方は、家族に好評でした。でも、私が2017年に、山口県入りしてからは、その状況が一変します。私が新しく覚えた、こんまり流の服のたたみ方は、2017年に私が山口県入りしてから、新しく一緒に暮らす事に成った女性からは、とても不評でした。その影響で、私は、自分の洗濯物を、約3年間、まともに、自分の洗濯物を、まともに洗えないまま、生活する日々が続きました。おかげで、不本意ながらも、仕事をして汚れた同じ服、同じ下着を、ほぼ毎日、着なければならない日々が続きました。私にとって、自分の服や、私と一緒に暮らしている方々の服は、それがたとえ、自分の気に入らない人物の服でも、私達と一緒に暮らしている以上は、自分達が洗濯をする時は、家族全員分の洗濯物を、全員分、まとめて、一つの洗濯機で、必ず、洗っていました。それがたとえ、お泊りに来た、お客様の物であったとしても、私達の家に、2泊3日以上の、お泊りの方は、基本的に、私達の家で、お洗濯をしたいかどうかを聞いた上で、私達の洗濯物と一緒に、洗う事も有りました。それに、私は、2017年6月15日に、山口県入りする直前まで、ほぼ毎日、私が、洗濯機を回して、干す係りでした。(私が静岡県下田市に居た頃も含む)それなのに、前回、私が山口県入りをして、私が左手首の骨折をした直後から、また、私は、自分の洗濯物を洗う機会を、もらえていません。私が左手首を骨折したので、自力で洗濯物を干す事は出来ない!と、私と一緒に暮らしている女性の判断でしょう。実際問題、私が左手首の骨折を、完全に治すまでは、私が両手を使えていた頃のような、生活パターンは出来ません。でも、私が骨折しようと、私が骨折してなかろうと、私が着た服は、服を着替えた時に、洗い物として、出さなければ、汚れた服は、キレイになりません。それなのに、私の服をまた、山口県内で、洗わせてもらえてない・・・。本当に、勘弁して欲しいものです。今度は、いつまで、私の洗濯物の洗い物が出来ない期間が、続くのでしょう・・・。ところで、こんまり流では、洗い物として、洗濯に出す服は、こんまり流では、捨てるか、残しておくかの判断では、セーフ、つまり、残しておいて良い服と、判断するそうです。汚れている!って事は、普段、使っているから、汚れる。普段、使っている!と言う事は、その服の持ち主が、何らかの理由で、気に入って、使っている!と言う事。こんまり流に限らず、ありとあらゆる、片付けに関する情報では、使っていない物を手放す事が大事!だと、言っている為、たとえ、汚れた服であっても、使った後が、はっきりと残されている、汚れた服は、残しておくべき服!と、こんまり流では、判断している様です。だって、使っていなければ、元々、砂埃がひどい場所や、埃まみれの場所でも無い限り、使っていなければ、服でなくとも、そんな簡単には、汚れませんからね・・・。物と言うのは、生物とは違って、自力では、動けません。その為、衣服も含めて、物は、人間にとって、どんなに邪魔な場所に有ったとしても、基本的に、それは、誰かが、そこに置いた事に成ります。(何かの拍子に、最初に置いた場所から落ちて、その場所に、落ちたままになってしまったり、ペットを飼っている場合は、ペットが、いたずらをして落としてしまったり、ペットが、どこかに移動する際に、偶然、落ちてしまったり、地震が来て、色々な物が、地震のせいで、倒れてしまったまま、手付かずになってしまったりする事も、時には、有ったりしますが・・・。)ところで、今回のテーマは、「私の好きな家具」です。家具は、物ですので、自力では、動けません。当然ですが。服に限らず、何かをしまうには、しまう為の場所の確保と、方法が、必要です。時には、「しまう必要が有る何か」をしまう為に、「専用に、アイテムが必要に成る」事も、有ります。「その為に生まれたアイテムの一つが、収納家具」です。私は、収納家具が、大好きです。その為、私が山口県入りしてから買ったアイテムの一つに、収納家具の一つである、折りたたみ式の、スツールが、有ります。私が買った、スツールは、スツールとして使う必要のない時は、折りたためる為、折りたたんで、邪魔に成らない場所に、移動出来ます。私の買ったスツールは、椅子としての使い道のほかに、収納家具としての、使い方も出来ます。その為、私は、私の手元に置いておきたい、書類などを入れて、しまっています。収納家具があれば、自分がしまいたい何かをしまったまま、家具として、使う事が出来ます。自分がしまいたい何かを、収納家具の中に、しまっている間は、次に、それを必要とする時まで、しまったままにする事が出来ますので、お客様に見られたら、生理用品などの様な、見られたら恥ずかしい物がその部屋に有ったとしても、あわてて、それを隠す為に、どこかへ移動させたり、布を被せて、目隠ししなくても良いので、私としては、お忙しい主婦や、お客様の多い家庭や、お客様の多い、収納家具を置ける場所の有る、お店などに、お勧めしたいです。(一番良いのは、自分が引越しをする時に、収納家具を、専用に購入して、自分の生活パターンに取り入れる事)私と収納家具の出会いは、私と私の妹の二人が子供で、渋谷の小児科の病院に通っていた頃にまで、さかのぼります。私は子供の頃から、病院通いが当たり前でしたので、50年間の人生経験の中で、私は、色々な場所の病院に通っています。私は子供の頃、東京都に、少しの間だと思いますが、住んでいた事が、有ります。その為、私が一番最初に通った病院は、虎ノ門病院だそうです。今の私は、自分が通った病院を、正確な順番で覚えているとは限りませんが、次に通った病院は、たぶん、渋谷の小児科の病院です。子供の私が、次にその病院に通うきっかけになった理由は、当時の私の、担当の女性医師が、自分の病院を開業したからです。私の病院通いは、ある程度、私が大きくなって、私一人でも、病院通いが出来る様になるまで、たいていは、母と一緒の、病院通いでした。その為、4歳下の妹が生まれてからは、自分の妹と一緒に、病院通いする事になった為、結果的には、女3人での、病院通いでした。子供の私が、渋谷の小児科の病院で、初めて、収納家具を見た時、とてもビックリしました。何故なら、それまでの私は、収納家具の存在も、収納家具と言う言葉も、知らなかったからです。当時の私が見た、収納家具は、長方形型の、横長タイプの椅子で、木製でした。その椅子は、普段は、上に座布団を敷き、その上に、病院に来た、診察を待つ子供達が、座っていました。その木製の椅子に座っていた子供達が、時々、本を手に持っている事が、有りました。その病院の先生に聞いてみると、その本は、元々、病院に有る本だと、教えてくれました。でも、当時の私が見る限り、その病院に、本棚らしい棚は、殆ど無く、その本、普段、どこに有るの?と、疑問に思って、聞いてみた事が有りました。そしたら、病院の先生は、待合室に有る、木製の横長の椅子の中だと、教えてくれました。当時の私は、収納家具の存在を、全然、知らなかった為、とてもビックリして、信じられませんでしたが、病院の先生が私に教えてくれた事が、本当の事なのか、知りたかったので、しばらく、横長の椅子に座らないで、見ていました。そしたら、その病院の横長の椅子に、絵本を取りに行ったり、絵本をしまう子供達を、時々、見かけました。その時、当時の私は、思いました。あの椅子が、自分の家にも有れば、まだ子供で、背の低い、今の私でも、自分の手が届く範囲内に、自分がしまいたいものを、自分でしまえるのに!と・・・。その為、当時の私は、いつか、私が大人に成ったら、あの椅子を買って、自分の部屋に置くんだ!って、そう思いました。だって、私は、子供の頃から、背が低く、小学2年生の頃から、当時の私より背が低い子が、私のクラスに居なかった為、私は、朝礼などでは、いつも、一番前に、並ばされていました。つまり、大人や、同年代の、他の子供達よりも、自分の背が低い!って事は、当時の私は、私と同年代の子供達がラクラク、自分の手が届く範囲内に有る物でも、同年代の他の子供達よりも、背の低い私にとっては、当時の私の手の届く範囲が、とても狭かった!と、言う事。その為、当時の私は、収納家具である、長方形の木製の、収納家具の存在の有無を考えては、私の手の届く範囲内にある、収納家具の重要性を、私がその病院に通うたびに、思い知る様になりました。その結果、私は、収納家具が、とても大好きに、成ってしまいました。同じ、「物をしまう作業をする」のなら、「その時点での私にとって、しまいにくい入れ物や、しまいにくい棚に戻すより、自分の手の届く範囲内にある、収納家具にしまいたいです」よね。だから私は、収納家具の便利さと、有り難さを、私は子供の頃から散々、思い知らされたので、私は、私の大好きな収納家具を、和製の収納家具か、外国製の収納家具かに関わらず、私の大好きな収納家具が、沢山置ける家や、部屋に、私は住みたいです。何故なら、私は、子供の頃~私が高校生になるまでは、同年代の他の子供たちより、ずっと、背が低かった為、その時点での私にとって、片付けにくい高さにある収納棚や、片付けにくい場所に有る、収納場所にしまうより、その時点での私にとって、比較的、しまいやすい場所にある、収納家具にしまった方が、そのアイテムを取り出す時も、しまう時も、いつでも、私が安心して、出し入れしやすいからです。何でもそうですが、使いやすさって、大事ですよね。例えば、同じ、紙を切るのでも、鋏で切るのと、カッターで切るのと、ペーパーナイフで切るのとでは、使い方にもよりますが、使いやすさって、違いますよね。同じように、私にとって使いやすい家具も、私にとって、使いにくい家具も、存在します。もちろん、私にとってしまいやすい収納棚も、私にとってしまいにくい収納棚も、存在します。そして、私にとってしまいやすい収納場所も、私にとってしまいにくい収納場所も、存在します。その辺の追求無しに、自分の子供が整理整頓が苦手だとか、片付けが超!ド下手だとか、言わないで欲しいものです。案外、整理整頓が苦手な子供や、片付けが超!ド級で、ド下手な子供達は、自分の手の届く範囲内に、自分のしまうべき場所が、確保されていないだけかも、知れませんよ。(私の場合は、そうでした。)もし、そうだとするなら、整理整頓が苦手な子供や、片付けが超!ド級で、ド下手な子供達は、親が、その子供達の手の届く範囲内に、収納家具を置いて、そこに、子供達のしまうべき物をしまうように、徹底すれば、良いだけです。(この方法で、解決する場合、親側にとっても、子供側にとっても、苦痛な時間の一つが、完全に無くなったり、苦痛な時間の一つが、少なくなったりします。)何故なら、子供の私は、自分のしまうべき物が、同年代の他の子供よりも、背の低かった当時の私にとって、非常に、しまいにくい場所や、しまいにくい高さにしか、しまう事が出来なかったので、いつも、私の手の届く範囲内に有る様に、親に叱られる!と分かっていながら、わざと、出しっぱなしにしていた事すら、有りました。(あまり、良い方法とは、言えませんけど・・・。)実際、「何故、物を使ったら、元に有った場所にしまわないんだ!と、父親に叱られた時の言い訳が、だって、その場所って、背の低い私には、あるいは、子供の私には、私の手が届かなくて、しまいにくい場所なんだもん!と、答えた覚え」が、私には、有ります。「大人にとって、使いやすい高さや場所って、大人より背の低い子供には、使いづらい高さや、使いにくい場所に有る!って事、時として、有ります」よね。(子供の安全を確保する為に、子供にいじられたら困るものは、高い場所でOK!)それなのに、「その事実を理解せず、自分の子供をバカ扱いしたり、障碍者扱いしたりするのは、間違っている!」のではないでしょうか?「そんな経験を、子供時代に、経験した私だからこそ!そう、言える」のです。でも、その事実を、私は長年、誰にも理解してもらえないまま、50年もの歳月が経ちました。2017年に、山口県入りした後の私でも、いまだに、誰にも理解してもらえていません。おそらく、私が2017年に、山口県入りしてから出会った、全ての人間関係の中で、私が片付け下手な事を知っている、全ての人達は、私をばか者扱いしたり、私を障碍者扱いしているのではないでしょうか。私の場合、「根本原因は、私にとって、使いづらい収納家具の存在が、私の片付け下手を助長している場合も有る!」ってのに・・・。(私の体験談、そのものです。)「私にとって、万能と名の付くアイテム・フリーサイズは、時として、その時点での私にとって、使いづらいアイテムへと、変貌する時が、有ります。」私の経験上、小さいサイズが売っていないからと言って、フリーサイズと呼ばれる、服のサイズを、子供の私に、母が買って来た事が、有りました。でも、今の私にとってもそうですが、フリーサイズの服って、私にとっては、ダボッとしていて、大きいんですよね。万能アイテムも同じで、物によっては、その時点での私にとって、とても使いづらく感じる時が、有ります。左手首を骨折した後の私にとっては、ダボッとしたサイズの服に、助けられた事も有りますが、私は本来、自分の体に、ピッタリ合うサイズの服が、好みです。何故なら、私の体に合うサイズの服でなければ、着にくい時も有る上、ダサく見える!と、過去に言われた事が、有るからです。そんな経験をした私ですから、他の方々にとって使いやすく、万能家具!と言われている、収納家具の一つである、カラーボックスは、私にとっては、万能では有りません。私にとってのカラーボックスは、荷物入れとしては、優秀ですが、私が一番欲しい家具の一つである、本棚の代わりには、成りません。何故なら、私は子供の頃から、本を読むのが大好きな上、A4バインダーに、私の頭に浮かんだ文章を文章化する事が、私は好きなので、今の私にとっては、ますます、自分の部屋に、専用の本棚の必要性が、ますます高くなり、専用の本棚の存在が、ますます、重要に成って来ています。本棚も、カラーボックスも、収納家具の一つです。私が、所沢の家に住んでいた頃は、本の片付けがとても苦手でしたが、飯能の家に引っ越して、私の部屋が出来、私の部屋に、専用の本棚を置いた事で、本の片付けが、上手に成った事が、有りました。でも今は、飯能の部屋にある、本棚の適正収納量より、私の部屋に有る、本の量が多くなって来てしまっているため、新しい本棚を買いたいのですが、新しい本棚を買おうにも、何か一つ、古い家具を手放さないと、新しい家具を、購入できない状態です。まして、2022年8月18日現在の私は、山口県下関市内に、普段、住んでいる為、余計、無理です。でも私は、所沢市に住んでいた頃から、自分の部屋に置きたい物は決まっているので、もし、私が自分の家を手に入れる事が出来たら、私は、自分の好きな収納家具を購入して、私にとって、使いやすい家具の配置や、使いやすい、収納の仕方を、追求する事でしょう。私にとって、自分の部屋の使いやすさや、自分の家の使いやすさは、直接、部屋や家の片付けのしやすさに、直接影響するだけでなく、私にとっての、住み心地にも、直接、影響するからです。それに、どうやら、私には、私の部屋に、私好みのアイテムが有るのと、無いのとでは、自分の部屋の片付けに関する、モチベーションに、直接、影響してしまう事が、分かって来ているからです。何故なら、私と妹は、昔から、片付けるのが、下手だった為、今の私は、私の苦手な片付けを、大得意には、すぐにはなれずとも、標準レベルの、片付け好き程度には成りたい(なりたい)ので、これからの私の部屋には、私自身が、積極的に、片づけをしたくなるタイプの、アイテムを、少しずつ、置いていこうと思っています。私の長い文章のブログに、最後まで付き合って下さって、本当にありがとうございます。 私のブログに、少しでも興味を持って下さった方々、本当に、ありがとうございます。 そして、私の長い文章のブログを毎回、読んで下さっている方々、いつも、最後までお付き合いいただき、本当に、ありがとうございます。 また、私のブログを、最後までお読みいただける様、努力いたしますね♡
            えりりん  

私のスマートフォン生活

皆様、こんばんは。えりりんです。今回のテーマは、「私のスマートフォン生活」です。皆様は、ご自分のスマートフォンを持っていらっしゃいますか?私は、今年の3月5日に、初めて、自分のスマートフォンに変更しました。私自身は、今まで使って居た、ドコモのらくらくホンで、充分、満足していたのですが、今の時代は、ガラケーと呼ばれるタイプの携帯電話は、いずれ、完全に無くなってしまうので、私自身も、いずれは、自分の携帯電話を、スマートフォンに切り替えなければならない時期が来てしまう!と、理解していました。ですので、私自身もいずれは、スマートフォンに変更しなければ成らないと、思っていました。そんなある日、ドコモから、私の携帯に、電話がかかってきました。もし、私が自分の「携帯電話」から、「スマートフォン」に変更しなければならない日が来たら、私は絶対、ドコモのスマートフォン版、らくらくホンにするんだ!と、決めていました。理由は、私が今まで使って居たドコモのらくらくホンが、とても使いやすく、毎月一回の支払金額自体も、そんなに高くなくて済んでいた為、普通の携帯電話がずっと、使い続けられるのなら、ずっと、使い続けるつもりでいました。ですが、普通の携帯電話では、少しずつ、使い続けにくい状況が増えてきました。その為、いつかは、自分の携帯電話を、スマートフォンに切り替える必要性が有る事を理解していました。今の時代は、ドコモショップに行く程度の事でも、予約なしでは、出かける事さえ、ままならなく成ってきました。「私がドコモショップに行く時」は、「私自身の気が向いた時に、私がドコモ店舗に行く必要性が有るタイミングで、私は、ドコモショップに出かけて居ました。」私にとって、「私が外出する時」は、「私自身にとって、外出する必要性が有るから出かけているだけ」なので、「今の時代の様に、必要以上に何でもかんでも、外出することを控える様に・・・と、言う現状は、はっきり言って、超‼迷惑な話‼」です。まるで、「私が子供の頃に、親や身内の言うとおりにしろ!と、強制されていた頃の様」です。ですが、「今の私の両親も、今の私の身内も、そんな馬鹿な事は、してません。」何故なら、「私の両親や私の身内は、そんな事を強制したところで、人間は、その人を尊敬しない!と、分かり切っているから」です。でも、「そんな事、私が文句を言っても、どうする事も出来無い‼」ので、「国や政府に、一日も早く、自由に外出出来る様に、努力してもらいたいもの」です。そんな中、「ドコモ店舗に来店予約」をして、3月5日に「ドコモショップに、行って 来ました。」そして、「私は、今迄の携帯電話から、新しいスマートフォンに切り替えて来ました。」「私が何故、自分の新しいスマートフォン」を、「ドコモのらくらくホンにしたか」と言うと、「私が今まで使って居た携帯電話の中の全てのデーターを、新しいスマートフォンでも、自由に使える様にしたかった」から、「私が今まで使って居た携帯電話の中の全てのデーターを、新しいスマートフォンでも、自由に使える様にする事」を条件に、私が今まで使って居た携帯電話から、新しいスマートフォンに切り替える事にしたのです。何故なら、「私は、写真をパシャパシャ取るのが好き」なので、「自分自身の仕事内容も、自分自身の日常生活も、全て、私の気が向いた時限定で、自分の携帯電話で、写真をパシャパシャ取って来ました。」その為、「マイクロSDカードがまともに使えるスマートフォン」で無くては、お話に成りません。さらに、「私は、携帯電話のドコモのらくらくホンの使いやすさに、完全に満足していた」ので、「ドコモの携帯電話のらくらくホンと、ほぼ同じ機能を持つスマートフォンで無くては、私自身としては、機種変更をするだけ、無意味‼」だったのです。ですが、正直言って、「スマートフォンに機種変更した後の毎月の支払金額」と、「新しいスマートフォンに機種変更した後のスマートフォンの使いやすさ」が、正直言って、気に成っていました。私自身が、「スマートフォン版、ドコモのらくらくホンを実際に使った後の使いやすさ」としては、「初めてのシステムアップデートを経験するまでは、使いやすさとしては、特に問題は有りません」でした。ですが、「私が初めてのアップデートを経験した後は、毎回、いちいちと、専用暗証番号を入力しないと、使えなくなってしまったので、とても、不便に感じています。」ですが、「今の私」は、「海の家の仕事が始まってしまったうえ、来店予約をしないと、ドコモショップに行けないので、毎回、不便さを感じながら、普段の生活を送っています。」「次回のアップデートでは、専用暗証番号を入力しないでも使えた状態に戻して欲しい」ものです。そうでなければ、「私は、わざわざ、今の新しいスマートフォン版、らくらくホンを使い続ける必要性は、私自身にとっては、あまり、必要性を感じません。」何故なら、「私自身がスマートフォンにした事で、スマートフォンにして良かった♡と、感じる部分」と、「スマートフォンにしたがために発生した、スマートフォンならではの使いづらさの両方を感じる」様に成って来たからです。「私にとってのスマートフォン」は、「携帯電話より、使いやすい部分」と、「携帯電話の方が使いやすかった部分の両方が、存在している」事が、「私自身の体験談から、解って来た」事です。「私のフェイスブックの記事の内容」より私が、「スマートフォン📱を実際に使ってみて、感じた事」
『私が、「今迄の自分の携帯電話📞」から、「自分のスマートフォン📱に切り替わった」事で、「私の生活習慣」が、「多少、変化」しました。😅
そして、それと同時に、「私にとって、スマートフォン📱が、便利に、感じる部分」と、「スマートフォン📱が、不便に、感じる部分」の、「両方が、存在する」事が、分かってきました。😅
「私にとって、スマートフォン📱が、便利に、感じる部分」は、「私の家族や身内・友人・知人との連絡」、「お店で注文した商品が入荷したかどうかの連絡」、「移動中の連絡用や調べ物」、「ウエザーニュースを使ったお天気確認」、「フェイスブックへの記事の投稿」や、「メッセンジャーでのやり取り」、それから、「携帯電話📞を所持していた時に良く使っていた機能」でもある、「写真撮影」・「電話連絡」・「メール」・「辞書機能」・「メモ帳機能」・「目覚まし機能」・「お知らせタイマー機能」・「ボイスレコーダー機能」・「ビデオ撮影機能」は、「私にとって、とても便利で、とても使いやすく、とても有り難い機能」です❤🎶😊😊😉😅
その反面、「私が実際にスマートフォン📱を使っていて、私にとっては、この機能、とても使い辛い‼️私のスマートフォン📱には、この機能、必要無い‼️と感じてしまう部分」もありました❤😅
それすなわち、「スマートフォン📱」で、「本を読む機能」、「タッチパネル方式」が、「それに該当」します。😅
「私は、基本的に、本を読む事自体は大好き❤」ですが、「私が本を読みたくなる時」は、「機械を使う事に疲れた時」や、「機械を使う事に飽きた時」なので、「私が持っているスマートフォン📱には、要らない機能」です。😅😅😓
それに何より、「タッチパネル方式」は、「携帯電話📞なら、きちんとしたボタンが付いていました」ので、「余計な操作ミスは存在しませんでした」が、「スマートフォン📱に成ってからは、いとしない操作ミスが発生しやすく、普段から余計な操作ミスを防ぎたい私」としては、「私にとってのタッチパネル方式」は、「超‼️迷惑な機能」と、成ってしまっています。😞
「私にとって、携帯電話📞も、スマートフォン📱も、パソコン💻も、使いやすければ、それでオーケー❤」なのですが、「私が特定の機械を使うたびに、操作ミスが発生する確率が高く成ってしまう機能」は、「改善のよちが有る‼️」のでは、ないでしょうか・・・。
それから、「私がこの機能、使ってみたいけど、なかなか、専用の時間が取れなくて、使いこなせていない機能」も、「私には、存在」します。😅
それは、「アメバオウンドのアプリ」です❤😅
「私にとって、アメバオウンドのアプリを使いこなせていない‼️と言う事実」は、「私的(わたしてき)には、超‼️大問題‼️なのです。😞
何故なら、「私が自分の意志で、自分自ら始めた、私のブログの記事の更新や、管理が出来無い‼️事に成るから」です‼️😞
でも、「場合によると、私がアメバオウンドのアプリを使いこなせていない事自体が、根本原因では無い‼️可能性も、有るみたい」です・・・。😅😅😞
もう、どうしよう・・・。😞
それから、「私にとってのスマートフォン📱の位置づけ」ですが、「私的(わたしてき)には、携帯電話📞と、移動中のパソコン💻の補助的存在❤😊と言う、位置づけ」です❤😅
私にとって、「移動中の連絡用(メールも含む)と、調べ物(インターネット検索も含む)、写真撮影、ボイスレコーダー、お知らせタイマーは、携帯電話📞だけでも充分でした」が、いずれは、「スマートフォン📱しか使え無く成ってしまうのであれば、スマートフォン📱を利用する」しか、選択肢は、有りません。😞
ですが、「私にとっては、自分の部屋に居る時」は、「パソコン💻最優先で、インターネット検索や、動画視聴、フェイスブックや、アメバオウンドでの記事の投稿をしていた」ので、「私にとってのスマートフォン📱」は、携帯電話📞と「移動中用のパソコン💻と同等の能力を持った補助的存在」と、言う位置づけに成っています❤😅
』以上が、私自身のフェイスブックの記事に投稿した内容と成っています。これが、私自身が実際にスマートフォンを使ってみて、私自身が実際に感じた事です。私にとって、「機械とは、人間が、使いこなすもの」と言う、「価値観が有る」ので、「私自身が実際に機械を使ってみて、使いにくい機能が存在する事は、私自身にとって、とても屈辱的な事」なのです。だから、「私にとって、私自身の持ち物としてやって来る全ての機械は、私自身が完ぺきに近い確率で、使いこなせる必要が、私自身には有る」のです。私はかつて、過去の父親から、こんな事を言われました。私がまだ中学生の頃、私自身がまだ、家の家電製品を使いこなすどころか、機械嫌いだった頃の事です。「当時の父親」は、「当時の私の家に有る、たいていの家電製品は、完璧に使いこなしていました。そのうえ、当時の父親は、当時の私の家にある、たいていの家電製品の、簡単な修理は、何でも、やってのけていました。」そんな父親でしたから、「当時の私」は、「お父さんって、凄い‼と、感心した挙句、当時の父親の事を、尊敬していました。」そのうえ、「当時の私」は、「大人の男性って、みんな、家の中にある機械は、何でも、自力で直しちゃうのね♡と、当時の私は、完全に、信じ込んでいました。」「当時の父親は、そんな感じの父親でした」から、「中学生時代の私は、まともな大人なら、機械を使いこなせなければ、大人じゃない‼と、言われた事を、素直に、完全に信じ切っていました。」そして、こうも、言っていました。「大人の男なら、自分の家にある家電製品は、簡単な修理位、出来なければ男じゃない‼」とも・・・。「当時の父親」は、「中学生時代の私に、こんな言葉を堂々と、言ってのけたもの」です。「当時の父親は、それくらい、機械に関して、とても詳しく、自信があった」訳です。何せ、「当時の私に、機械のプログラムの作り方を、学習させようとした」位ですから・・・。でも、「当時の私の学力」では、「機械のプログラムの作り方など、とても覚えきれなかった」ので、「機械のプログラム作りに必要な、基礎中の基礎程度の事を昔、お父さんに教えてもらったな・・・程度の認識しか、理解出来ていません」けどね・・・。そして、「当時の私の人間関係」では、「当時のお父さん並みに機械に詳しかった人は、当時の私の人間関係の中では、お父さんのすぐ下の弟が、お父さん以上に詳しかった」です。そして、「当時の私の人間関係の、周囲の男性達は、皆、当時の私の父親ほどでは有りませんでしたが、当時の成人男性は皆、大なり小なり、ご自分の家にあるたいていの家電製品の修理を、自力でして居る人が、ほとんど」でした。そして、「実際、当時の私の身の回りに有った、たいていの機械たちは、自力で直せるようなタイプの機械が、結構有りました。」「掃除機のコードの断線程度」など、「当時の父親は、自力で直していました。」「私は、その光景を、私が成人するまで、何度も見ています。」でも、それだけの知識と経験を持った父親も、今は、見る影もない状態・・・。早く、うつ病から立ち直って欲しいものです。私は、「老化とうつ病は、違う」って、思っています。「同じ、動けなくなる理由」でも、私は、「うつ病で動けなく成るより、病気で動けなく成るより、怪我で動けなく成るより、老化で動けなくなってしまう方が、余程まし!」だと、思っています。「私は基本的に、病気は大っ嫌い」です。「私が動けなく成る現象」は、「例え、老化が根本原因だとしても、出来れば、受け入れたくは無い」です。ですが、「老化現象を止められない限り、老化のせいで、私自身が実際に動けなくなってしまう現象は、いつかは、私自身の身に起こって来る事」でしょう。でも、「その時の私は、一体、どこで、誰と一緒に暮らしている」のかしら・・・?それとも、私は、「かつて夢の中で見たように、一人ぼっちで、自分の身内とも、連絡すら取れずに、孤独死をする」のかしら?それとも、「私が山口県入りする前に、夢の中で見たように、どこかの道端で、ひっそりと、無縁仏として、葬られたまま、誰にもお墓参りされないままのお墓に入る事に成る」のかしら・・・。私は、「自分の老後」は、「一体、どんな現状に成っているんだろう・・・」って、いつも、「自分の将来を考えるたびに、考えてしまいます。」そして、「私にとっての理想の現実」が、「自分の将来の姿」に成れるよう、「私は、今から、しっかりと、少しずつ、努力して行きたい」と思います♡私の長い文章のブログに、最後まで付き合って下さって、本当にありがとうございます。私のブログに少しでも興味を持って下さった方々、本当に、ありがとうございます。そして、私の長い文章のブログを毎回、読んで下さっている方々、いつも、最後までお付き合いいただき、本当に、ありがとうございます。また、私のブログを最後までお読みいただける様、努力いたしますね♡            えりりん 

春のお彼岸の帰宅の件

皆様、こんにちは。えりりんです。今回のテーマは、「春のお彼岸の帰宅の件」です。私は、「以前、私のブログである、えりりんのブログの中で、春のお彼岸の時期に、帰宅する!と、書きました」が、「今回、私は急遽、春のお彼岸の帰宅は、急遽、取りやめる事」にしました。「その理由は、私のフェイスブックの中でもお話しました」が、「私のフェイスブックの記事の内容」を使って、ご説明いたします。「私のフェイスブックの内容」より絵里「皆様、こんばんは。😄
私、色々考えた結果、今回の春のお彼岸の帰宅の件は、キャンセルしました。😅😅😔
やっぱり、私は、周りが騒がしい時期よりも、周りが静かな時期の方が、安心して、過ごせる気がするからです❤😅😅😔
だいたい、私は、根本的に、自分の周りが騒がしいよりも、私の周りが静かで落ち着いた雰囲気の方が、私の好みの生活環境なのです。😄
でも、だからと言って、私は、静か過ぎるのもまた、大っ嫌い‼なんですけどね・・・。😅」母のコメント「ええ~っ、そうなの?ビックリ!
明後日、帰って来るねと言っていたのに。。。」「私のフェイスブック」の、「私自身の返信内容」より絵里「 お母
さん、おはようございます。😄
お母さん、私、やっぱり、もし、今回、私が家に無事に帰れたとしても、私は昔から体の調子が悪くなりやすかったし、昔から私の身体が同年代の人達と比べると疲れやすかったのに、私は今のままでも、十分すぎるほど、体が疲れやすい時が有ります。😔
それなのに、私が、羽田空港✈️に着いたときに、所沢駅からの直通バス🚌が使えるのと使えないのでは、私の身体の疲れ方が断然、違ってきます。😅
私は、羽田空港✈️と所沢駅を結ぶ、直通バス🚌が使えないのなら、私が無理して家に帰る必要性は無いかな・・・と、思います。😅
だって、羽田空港✈️直通バス🚌の存在の有無は、乗客側からすれば、自分自身の身体の疲れ方に、強制的に直接関わって来ます。😅
それすなわち、私はただでさえ、昔から身体が疲れやすかったのに、羽田空港✈️からの直通バス🚌がまともに走っていれば、防げた体力の低下も、羽田空港✈️からの直通バス🚌が使えない状態での帰宅は、その分、余計な体力を使う事につながり、私が飯能を往復するまでの間に例え、コロナウイルスに感染しなかったとしても、体力の低下による疲労困憊に成る可能性の方が、確率的に高く成る可能性が高い‼️と判断し、今回の帰宅を、停止することにしました。😅😅😔
他の人達には理解できなくても、お母さんだったら、私がこう説明すれば、私が羽田空港からの直通バスが使えない状態での帰宅は、いかに、私にとって、体力的に無理があるかどうか位、簡単に理解できるでしょ。😅
だから、私は、今回の帰宅を止める事にしたの。😄
ご理解、頂けたかしら?😅 」

山中初江
「了解したけれど、こういう事情は前もって直接母に連絡してください。」 以上が、私のフェイスブックの記事上での、私と私の母とのやり取りです。でも、まあ、当然な意見ですよね。ですが、「私が自分の頭の中で、色々と考え事をしている時」は、むしろ、「余計なアドバイスを私の頭の中に入れない方が、私が何かを決断しようとしている時は、私自身にとって、より良い決断を下せる時も有った」りします。ですので、「私が誰かにアドバイスを求める」のなら、「私自身は、慎重に検討した上で、誰かにアドバイスを貰うかどうか」を、決断しなくては成りません。そんな状態の私ですから、私自身の人間関係の中では、余計なトラブルの基に成ってしまう事も有ります。でも、まともな考え方をする大人なら、自分自身の人生の中で、何かを決断する時は、毎回、親の意見ばかりを取り入れる!なんて事は、しませんよね。当然ですが。いくら、「自分の両親が大切だ!」とは言っても、「毎回、私が自分の両親の考え方に賛同しなければ成らない理由は、存在しません。」自分の身内や自分の両親を大切にすることは、当然の事ですし、当然、良い事では有りますが、だからと言って、毎回、私自身の人生の決断に、毎回、親の意見ばかりを取り入れてばかりの人間が、世の中で、トップクラスの人間にいますか?私は、山中家の長女としての教育を、親のしつけの段階から受けて来たので、私が意識の時代のリーダーに成れようと成れまいと、私は、泉の姉であると言う立場上、最低でも、山中家のリーダーに成れなければ成りません。その為に、私は、理想のリーダーに成るための勉強を、色々な本を読みながら、勉強しています。「リーダー」は、「リーダーであるがゆえに、確固たる自分自身の信念と、自分自身で色々な判断をし、自分自身の意志で、色々な決断を下していかなければ成りません。」その為に、「いくら、頼りがいがあるとはいえ、自分自身なりの判断をする機会を奪うような人間」は、いくら、「自分の親だとしても、絶対に頼り切ってはならない」のです。「私が静岡県下田市に行く直前までの私の母」は、「それが解らない状態」でした。ですから、「当時の私」は、「親元を離れて、静岡県下田市に行く決断」を、下しました。ですが、私が2017年に山口県入りした後で、「過去の母と全く同じ考え方をするタイプの女性」と出合いました。「その女性」と「私」は、「実際は血縁関係は、全く有りません」が、「私とその女性は、良く似ている」と、「私達がお世話になっている男性」から、良く言われます。その結果、私は、「山口県入りした直後の私」は、「その女性と最初は仲良くしたかったにも関わらず、私が山口県入りした後で、この山口県にも、過去のお母さんと悪い意味での、同じタイプの女性が存在する!」と、「私自身が認識してから」は、私は、「その女性の事が信用出来無く成ってしまいました。」「過去のお母さんのタイプ」は、私の大っ嫌いな、「他人をコントロールするタイプ」の、「コントロール型の人間」でした。「コントロール型の人間」の「存在」が何故、いけないのか?と言うと、解かりやすく説明すると、「コントロール型の人間」は、「他人を信用していない」上に、「ご自分自身の事も、信用していないから」です。「コントロール型の人間」は、「他人を信用していない」ので、「ご自分の言う事を聞かせたい時は、ご自分がして欲しい事を、当たり障りなく注文して来ます」が、「基本的に、自分自身の事も信用していない」ので、「相手がどんなに、その人に対して尽くしても、その人ご自身の心の底から、感謝の念が湧いてくる事は有りません。」その為、「コントロール型の人間」は、「相手」が、「どんなに、その人の言うとおりに行動したとしても、決して、満足することは無く、コントロール型の人間は、次から次へと、自分自身が他人にして欲しい事が、この世の現実から全て無くならない限り、何時までもいつまでも、延々と、際限なく、ご自分がして欲しい事を、遠慮なく、注文し続けてきます。」「誰かがコントロール型の人間に出会っても、一定期間、一緒に暮らしたり、一緒に行動しなければ、その人がコントロール型の人間だとは、気づきません」が、私はすでに、「一人目のコントロール型の人間に出会った後」なので、「二人目のコントロール型の人間に出会ってしまった」なら、「一人目のコントロール型の人間に、今迄さんざん、されてきた事と、二人目のコントロール型の人間が、私に対する指示の内容を比べながら行動すれば、誰が、コントロール型の人間かは、私にとっては、一目瞭然なの」です。そして、「私がコントロール型の人間に出会って、私自身が本当に良かった!と、思える事は、ほとんどの場合、存在しない」ので、「もし、誰かがコントロール型の人間に出会ってしまったなら、出来るだけ早く、コントロール型の人間が居る環境から、一刻も早く、離れましょう。」「コントロール型の人間」は、「ご自分の言う事を素直に聞いてくれる人は好みます」が、「コントロール型の人間」に、「誰か」が「コントロール型の人間である、その人」に対して、「意見をしたり、頼み事をしたりをすれば、とたんに、嫌われる基となり、コントロール型の人間の心は、不愉快な気持ちで満たされてしまいます。」「基本的に、コントロール型の人間は、ご自分の言う事を、何の疑いもなく素直に従ってくれる人は、心底、好みます」が、「コントロール型の人間に対し、少しでも、その人なりの意見や希望を言おうものなら、明らかに、コントロール型の人間の言う事を素直に聞いている時とは、別の反応をして来ます。」ですから、「コントロール型の人間」は、「基本的に、ご自分の教育者を、本当の意味で、受け入れる事は有りません。」ですが、「コントロール型の人間にとっての教育者」が、「ご自分の好きな人である場合は、多少は、その教育者の言う事を聞く事も有る」様ですが、「基本的に、コントロール型の人間は、他人がご自分の思い通りに動いてくれなければ、他人と一緒に居る意味は無い!と、本気で思っているタイプ」なので、こういうタイプの人間を、「ご自分の結婚相手に選んでしまうと、結婚相手に選んだその人ご自身の方が、不幸に成ってしまいます。」それに、「コントロール型の人間」は、「他人に、ご自分の思い通りに動いてもらうためなら、平気で、嘘をつきます。」「コントロール型の人間」は、「平気で、おべっかも使います。」「コントロール型の人間が作る手作り」は、「他人に、ご自分の思い通りに動いてもらうための道具」です。「コントロール型の人間がする優しさ」は、「時として、他人をコントロールする為に、使われる事さえ、有ります。」とにかく、「コントロール型の人間にとっての他人」は、「ご自分の思い通りに動いて、働いてもらわなければならない存在」=奴隷なのです。「他人をコントロールするタイプの人間」は、「とにかく、おしゃべりが大好き」です。でもそれは、「情報収集」と、「他人を、ご自分の思い通りに動かすための判断材料」を、「普段のおしゃべりの中から、無意識的に探そうとするから」です。だから、油断大敵なのです。「他人を信用することは大事です」が、「他人を信用しすぎて、ご自分が痛い思いをしない様に、普段から気を付けましょう。」「過去の私」は、「他人を信用しすぎて、散々、痛い思いをして来ました。」だからこそ、「私には、分かる」のです。「他人を信用する事は、大事。でも、他人を信用しすぎると、自分自身が、痛い思いをしたり、自分自身が、馬鹿を見る事がある!」と・・・。ですから、「出来る限り、コントロール型の人間が、今のご自分の人間関係に、存在していないかどうか、常に、チェックしながら、生きる様にしてみて下さい。」「私自身の人間関係」は、決して、広い方では無いのですが、それでも、「コントロール型の人間に、すでに、二人も出会ってしまっている」のです。「一人目のコントロール型の人間だった、私の母」は、「今は、もう、コントロール型の人間で有る事を、ご自分自身の意志で直しました」が、「私が山口県入りした直後に出会った、二人目のコントロール型の人間」の方は、「現在進行形です」ので、「5年目の夏が過ぎたら、出来る限り早くこの家から離れなければ成りません。」「5年目の夏まで、待つ」のは、「その人ご自身の意志で、ご自分の欠点を自覚したうえで、本気で直そうとするかどうかを、確認したいから」です。でもたぶん、「一人目のコントロール型の人間だった、過去の母親のケース」から行くと、「私自身が、その女性から離れないと、その女性は、一生かかっても、気づく事は無いかも知れません。」「過去の母」は、私と妹の二人が、静岡県下田市に行った事がきっかけで、私たち家族は、重見さんの音声である、「排泄の科学」と出合い、現在の私が、山口県入りするきっかけに繋がって、今の私の生活が、存在します。ですが、「過去の母」にとっては、「ご自分の娘二人が、ご自分の手元から離れた!と、言う、現実に、見舞われた」事に成ります。つまり、「私が一人目のコントロール型の人間から離れて生きる決断を下した」事で、私は、二人目の「日本で最高の教育者」と、「母に言わせる程」の、「重見さんと出合う道を選択した」とも、言える事に成ります。だって「私の場合」は、「私がいつまでも親元に居たら、私は、重見さんの排泄の科学とも出会えなかったし、重見さんご本人のいる、山口県下関市に、私がやって来る事も、私が下関市民に成る事も、結果的に、あり得なかった」のですから・・・。そして何より、「私がいつまでも親元に居たら、もしかすると、山口県で出会った、二人目のコントロール型の人間の現実は、今でも、私の母の現実だったかも」知れません。そう考えると、「私がいつまでも二人目のコントロール型の人間が居る家」には、「私が居ない方が、お互いの為に成る!」と、言う事に、成りますね。だいたい、私は、「私が山口県入りする直前までは、私は、自分の家を手に入れて、一人暮らしをする事が、私自身の夢でもあったのですから、そもそもの話、私がいつまでも、他人との共同生活をし続ける事なんて、私の理想の現実から、離れている!」って、事に成りますよね。「過去の私」は、かつて、「当時の父親」から言われました。過去の父親「早く結婚しろ、結婚しないなら、早く一人暮らしをしろ!」と・・・。そんな事を、「当時の私の父は、当時の私に、事あるごとに言っていたので、嫌と言うほど、私自身の潜在意識の中に、その言葉が入り込んでいます。」ですので、「私は、いつまでも、この家に居続ける訳には、いきません。」私は、今のところ、「二人目のコントロール型の人間が、たまらなく大っ嫌いです」が、「私がこの家から離れれば、もう、その女性とは、完全に縁が切れることは明白」なので、「私がこの家を出れば、二人目のコントロール型の人間を嫌う必要も無くなり、お互いの心の平和が、それぞれの心の中に、訪れやすく成ります。」私は、「自分の理想の家」を、「どこで手に入れるかは、まだ、全然、決めていません」が、「私の実家のある埼玉県内には、私が考える理想の家の雰囲気に近い家」が、存在するところが有ります。私が今いる「山口県内」にも、「インターネットで調べた範囲内」では、「それなりに、良さそうな所が存在することは、分かって来ました」が、だからと言って、「どちらのケースも、まだ、候補としても、確定したわけでは、有りません。」「今の私」では、まだ、「金銭的な問題も、解決した訳では有りません」が、でも、だからと言って、「自分の理想の家のイメージを持つための努力」は、「お金が無くても、出来る事」だと、私は思っています。その為、私は、「理想の家」と、「理想の生活スタイル」を、「イメージするために必要な勉強を中心に、今の私は、勉強しています。」「私にとっての、理想の生活スタイルを、いとも簡単にイメージ出来る様にならなければ、こんまり流の片付け方法にすら、チャレンジ出来ないから」です。「こんまり流の片付け方法で、一番大事な事」は、「その人にとっての、理想の生活スタイルをイメージする事こそが、一番、大事なポイント」と成ってきます。そして、「理想の生活スタイルが、その人ご自身の頭の中にイメージ出来ないまま、こんまり流の片付け方法による片付けをチャレンジしてしまえば、その人は、何時まで経っても、まともな片付けさえ、出来ない状態に、成ってしまいかねません。」そのせいも有り、「私は、自分の理想の生活スタイルと、自分の理想の家のイメージをするために必要な勉強の方を、最優先して、勉強しています。」「私が、いつ、どこで暮らす事に成ろうと、私の部屋の片付けは、絶対に避けては通れません」から・・・。私の長い文章のブログに、最後まで付き合って下さって、本当に、ありがとうございます。私のブログに少しでも興味を持って下さった方々、本当に、ありがとうございます。そして、私の長い文章のブログを、毎回、読んで下さっている方々、いつも、最後までお付き合いいただき、本当に、ありがとうございます。また、私のブログを最後までお読みいただける様、努力いたしますね♡            えりりん

私が考える意識の時代のルール

皆様、こんばんは、えりりんです。今回のテーマは、「私が考える意識の時代のルール」です。私は、今までずっと、「私が意識の時代を呼ぶ!」と、時折、言い続けてきました。そして、今が、その時かは、まだ、私自身としては実感が有りませんが、今は、今迄の時代である、地の時代(山羊座の時代)とは違い、「風の時代」と呼ばれる、「水瓶座の時代」がやって来ました。「風の時代」は、「個別型の時代」だそうで、今迄の「山羊座の時代」であった、「グループ型が主流の時代」とは違い、これからは、「現代を生きる全ての人間」が、「それぞれ、自分らしさを確立しながら、生きて行くべき時代」と成ってくるようです。でもこれは、「私が考える意識の時代のルール」と「共通している点が存在します」ので、ご報告致します。「母と私との間でのメッセージのやり取り」より絵里「でも、今は、風の時代。

これからの時代は、地の時代とは違って、グループ単位でより、個別単位での時代だから、チェーン店や、大企業ほど、業績悪化するのは、どうしようもない時代なの。

大企業やチェーン店って、どうしても、売り上げ優先型になるでしょ。

消費者に喜ばれているかどうかよりも、売り上げ優先型の経営に成るでしょ。

だから、そんなタイプの会社ほど、これからの時代は、消滅の危機にみまわれるの。

大企業って、全部とは言わないけど、大半は、消費者の気持ちに、全然寄り添った経営をしていない会社の方が、多かったわよね。😅

でも、これからの時代は、そんなタイプの会社ほど、これからどんどん、姿を消していくの。

大企業や、チェーン店で働く人達にとっては、これからの時代は、とても厳しい時代に成っていくの。

では、既につぶれてしまった、会社やチェーン店で働いていた人たちは、これからの時代、どうすればいいの?って話になるけど、それは、これからの時代に生き残りたかったら、絶対に実行するべきことが、いくつかあるの。

風の時代に生き残るためにすべきこと。
1、「お客様に喜ばれるような何か」を仕事にする事。
2、「自分がしたい事」を、仕事にすること。
3、「感謝をする」こと。

これが、私が、風の時代に関する動画を見ていくうえで、風の時代について話している、全ての人たちの動画に共通する項目なの。

でも、これは、私がずっと話していた、「意識の時代に共通する、項目」なの。

「私が考える意識の時代」とは、「大半の大企業の考え方である、売り上げ優先型の経営方針を、中小企業の良さである、お客様の気持ち優先型の経営方針へと、転換させるのが、私が考える意識の時代の経営方針」なの。

これからの時代は、「売り上げ優先型の経営方針しか持てていない企業や、人物」は、「私が考える意識の時代でも、風の時代的にも、生きていけないタイプの考え方」に、成っていくの。

だから、「個別型の視点から見てつぶれていくタイプの人間」は、「強欲主義の人間」、「がめついタイプの人間」、「コントロール型の人間」なの。

お母さん、私達が今まで生きて来た人生の中で、「強欲タイプの人間」や、「がめついタイプの人間」、「コントロールタイプの人間」を、今迄たくさん、見て来たでしょう。

私達、いままでさんざん、「どうしたら、そんなタイプの人間に、少しでも、私達の気持ちを味わわせてやれるのかしら?」って、散々、議論して来た事、有ったよね。

でも、私達が直接手を下さなくても、これからの時代である、「風の時代」に適応できない、「強欲タイプの人間」、「がめついタイプの人間」、「他人をコントロールするタイプの人間」は、その考え方を止める!と言う決断をして、実行しないと、「風の時代と意識の時代の共通のルール」では、「生き残っていけないタイプの人間」や、「生き残っていけない企業に成っていってしまう」の。

だから、「大多数の大企業やチェーン店」は、「風の時代と意識の時代の共通のルールに沿った経営方針に切り替えないと、これからの時代は、生き残っていけない」の。

つまり、「風の時代」は、「私が考える意識の時代のルール」に、だいぶ近いの。😄

私が考える意識の時代のルール
1、自分の方が強いからって、むやみに誰かに攻撃しない。
2、誰かに喜ばれるような何かで仕事をする。
3、誰かや何かに心底、感謝できる自分に成る。
4、自分にも、他人にも、嘘をつかない。
5、外交的なタイプの人も、内向的なタイプの人も、自分らしく生きる。
6、自分が今までしてみたかった事に蓋をせずに、堂々と、挑戦してみる。
7、自分自身を愛するためにも、自分自身が嫌な事には、サッサと見切りをつけたうえで、行動する事。
8、自分の方が強い立場や、偉い立場に成った時は、その時点での自分の周囲に居る人達の中から、自分が心底、応援したいとか、助けてあげたい!と、感じる人達が身の回りに居たら、その人達の事を、心の底から、応援し、助けてあげる事。
9、動植物たちの様な、人間より弱いものを、あるいは、自分より弱いものを、むやみに傷つけない。
10.地の時代に有ったルールや考え方でも、良い事は何でも、その時代に合う形で、取り入れる事
11、今迄の時代のルールや考え方の中で、悪い結果にしか繋がっていなかった事は、新しい時代に沿った形で、良い結果に改善していくこと。
12、自分が心底助けてあげたいとか、心底、応援したい!と思える人たちが自分の周囲に居なかった場合は、他の国や、他の生物たちにも目を向けること。

以上が、とりあえず、「私の頭の中にスラスラと出て来た、私が考える意識の時代のルール。」

だって、私達が生きて来た、地の時代(山羊座の時代)って、強者にとっては、都合がいい時代だったけど、弱者にとっては、とても、生きづらかった時代だったわよね。😅😅😔

「私が意識の時代を呼びたかった根本理由」は、「今迄の私達が散々味わってきた苦しみや悲しみを、根本的なところから、解決したかった!」と、言うところが、一番、大きいの。

この世の中に存在することは、「どんなに良い事でも、どんなに悪い事でも、必ず、その現象が発生する、根本的理由が存在する」の。

つまり、「因果の法則」って、事ね。

「どんなに悪い現象でも、原因無くして、その結果は生まれない!

「どんなに良い結果でも、原因無くして、その結果は生まれない!」って、事。

それこそが、私が持っている「般若信教の本」の中で、説明していること。

もっとも、私が自分で買った本のページには、私がその本を読みながら、その時点での私の感想や考え方をその本の中に、色々書いてあるけどね。😅

でも、だからこそ、私が本を読むときは、出来るだけ、紙タイプの新品の本を購入する必要が有るの。

電子書籍だと、それが出来ないし、そもそも私が本を読むときは、機械を使う事に飽きた時や、機械を使う事につかれて来た時だからね。😅

私は、機械を使う事自体は決して嫌いではないし、モノによっては好きだけど、でも、だからと言って、全てのものを機械化する!と言う、考え方だけは、好きに成れない。

だって、「人間」は、「人間であって、機械じゃない」からね。

「誰も、誰かをコントロールしてはならない」し、「誰も誰かを犠牲にしてはならない。」

私の人生は、今までさんざん、いろんな人たちの圧力にさらされ続けて来たからね。

色んな、意味で。良くも、悪くも。

でも、風の時代では、「犠牲が無ければ存続出来ないものは、風の時代では、消滅するしかない」の。つまり、本当の意味で、奴隷制度は、完全に無くなるの。

「私達が生きて来た時代は、ある意味、奴隷的な生き方をさせられてきた!」とも、言えるよね。

だって、「強者と弱者」って、「考え方」や「表現」が、「存在する」んだから。

「本当の意味で、奴隷制度が無ければ、強者と弱者って、考え方や表現が存在出来る訳ない」よね。」
母「今日は。凄く長い文章だったね。でもよく書けてたわよ。
意識の時代の12のルール、絵里が考えたの?凄いね!!
それもスラスラ出て来るなんて、ますます凄い!

いろんな事を考えてるのね。
これからは風の時代だそうだけれど、トランプさんにお陰で今までの世の中が180度大きく変化する可能性が大です。
きっと絵里が考えている様なことが実現・実行できる世界になって行くんじゃないかしらね。
楽しみにしましょうね😍 」以上が、私と母との間で、実際にやり取りした、メッセージのやり取りの内容です。私のブログを読んで下さっている読者の皆さまは、今回の私のブログを読んで、いかが思われましたか?きっと、いろんな意見をお持ちでしょうね。私のブログを読んで、超絶、感激なさっている方、私のブログを読んで、ショックを受けてしまった方、私のブログを読んでも、ふーん、何言ってんのこの人!と、思われた方、そもそも、私のブログ自体に、興味を持っていないけど、偶然、読んでしまった!なんて方も、いらっしゃるのでしょうね。私自身としては、それはそれで構いません。何故なら、私は、私が自分のブログを使って、私自身が、私のブログを読んで下さっている読者の皆様方に、私自身が伝えたい事を、伝えているだけに過ぎないからです。ただ、私は、私自身が自分のブログを読んで下さっている読者の方々に、私自身が考えている事を知っていただき、私が自分のブログで伝えている事を、考えて欲しいのです。私のブログを読んで下さっている読者の皆様方、貴方方は今、幸せですか?私のブログを読んで下さっている読者の皆様は、ご自分が、本当に今までやってみたかった事と向き合っていますか?そして、その結果、今の自分は、理想の自分とイコールですか?私自身は、今はまだ、理想の自分とイコールとは、言えません。ですが、私は、理想の自分とイコールの言動が出来る様、今の私は、色々な勉強と、色々な努力をしている最中です。その為、私は、パソコン作業以外の事をする機会の方が、多くなって来ています。おまけに、私は、3月から、海の家の作業が入ったのと、私が春のお彼岸の時期に帰宅する為の準備も同時進行で進めていかなければ成らないので、今の私は、結構、忙しく成って来ています。私が春のお彼岸の時期に、実家へ戻った時、私が今使って居るパソコンを、私の実家へ持って行くかどうかは、正直、分かりません。ですが、今の私に確実に言える事は、私が初めて買った、自分のパソコンを、一日も早く修理し、また、堂々と、自分のパソコンで、パソコン作業をしたいなって、思っています。私が今、使って居るパソコンは、借り物のパソコンなので、正直、使いづらい面が有ります。でも、これは、自分のパソコンでは無いので、仕方ないかな・・・って、思いながら、使って居ます。いつか、自分のパソコンを、新しいパソコンに買い替える日が来たとしても、私自身が最初に購入した、NECのパソコンは、使い続けられる限り、使い続けたいな・・・って、思っています。私が2台目のパソコンを購入する時は、1台目のノートパソコンと使い分けながら使うか、2台あるパソコンのうち、1台を実家の私の部屋の専属用として、使う事に成るかの、どちらかに成ると思います。正直言って、私が実家に帰宅するたびに、いちいちと、荷物づくりの作業の手間暇の中に、ノートパソコンを専用に荷造りする手間暇が省ければ、それはそれで、ありがたいな・・・と、思う様に成って来ています。何故なら、私が実家の飯能市へ帰宅するたびに、毎回、ノートパソコンを専用に個別包装しなければならないので、いくら必要に駆られてとは言え、やっぱり、ノートパソコンを専用に個別包装しなくて済めば、それはそれで、ありがたいかな・・・と、思えて来ました。ですが、私が実家の飯能市へ帰宅するのは、今のところ、一年に一度だけですので、一台だけ、実家の私の部屋に置いてくるのも、どうかな・・・と、考えてしまう事も有ります。ですが、今はまだ、2台目を購入していない状況ですので、その辺は、2台目を購入してみて、1台目と2台目の使用頻度や使用状況の状態によって、決める方が、現実的かな・・・と、思っています。私の長い文章のブログに最後まで付き合って下さって、本当にありがとうございます。
私のブログに少しでも興味を持って下さった方々、本当に、有り難うございます。
そして、私の長い文章のブログを毎回、読んで下さっている読者の方々、いつも、最後までお付き合いいただき、本当に、有り難うございます。

また、私のブログを最後までお読みいただける様、努力いたしますね♡
         えりりん






来年の目標

皆様、こんばんは。えりりんです。今回のテーマは、「来年の目標」です。皆様は、毎年、「来年の目標」を、決めていますか?私は基本的に、来年の目標は、決めていません。ですが、今回だけは、「来年の目標にしたい!と、思える事が見つかってしまい、今年だけは、来年の計画を、久しぶりに立ててみよう」と、思ってしまいました。「私の来年の目標は、執筆家や、作家、小説家、コンサルタントの様な、私が普段から好きでしている、読書と文章を書く事を活かすことの出来る職業で、活躍出来る様にする!」です。でも、「いきなり、執筆家や、作家、小説家、コンサルタントになれる訳は無いですので、まずは、その為の勉強を開始する!」所から、始めるべきですね。私にとって、「執筆家も、作家も、小説家も、コンサルタントも、いずれも、職業名としては、聞いた事は有りますが、今迄の私とは、直接関係は有りません」でした。「執筆家も、作家も、小説家も、コンサルタントも、いずれの職業にしても、私は、一回は、その職業に憧れた事は有りますが、その職業に就くために必要な情報は、今迄の私の人間関係の中では、私の周りに、その職業に就くための情報を、誰かが、私の周りにその情報をもたらして下さる事は、今迄、一度も有りません」でした。ですが、今の私は、「過去の私と違って、もう、大人ですので、私が今使って居るパソコンを使って、執筆家や、作家、小説家、コンサルタントにどうすれば私がなれるのか、どう、努力すれば、成れるのかを、少しずつ調べて行って、その職業に就くために必要な努力を、少しずつ、実行していこうと、思っています。」私は、私が山口県入りしてからと言うもの、「私が海の家での肉体労働をする事自体は、決して嫌いでは有りませんが、私は昔から、他の方々と比べて、体調不良に成りやすかったので、私は昔から、自分が体調不良に成った時の私にも、出来る仕事!」を、ずっと、探してきました。「私がいくら、海の家での仕事が大好きでも、それは、私の身体がまともに働ける状況が有ったればこそ!」の話。では、今年の私の様に、「体調不良が長期間続いてしまった時のお仕事は、どうすればいいか・・・。」私は、「その為に必要な情報を、私が山口県入りするずっと前から、真剣に考えて来ました。そして、ようやく、自分なりの答えが見つかって来ました。それが、執筆家や、作家、小説家等の様な、デスクワークでのお仕事をすればいい!」って、事です。私は、「基本的に外に出てお仕事をする事自体は決して、嫌いでは有りませんが、私の身体が思うように動かない時は、どうしようも有りません。」私にとって、「外仕事をする事自体は、いい気分転換にも成るので、私は、基本的に外仕事をする事自体は、大好きですが、私の場合、昔から体調不良に成りやすい私としては、いつまでも、安心して、肉体労働だけの仕事の計画は、はっきり言って、安心できる働き方では有りません。」ですので、「私の場合は、肉体労働だけでは無い働き方も、私の稼ぎ方の基本的な働き方に、組み込んでおく必要」が有ります。ですので私は、「海の家でのお仕事が有る時期以外の働き方は、デスクワークを中心にして、働こうかな・・・」と、考え始めています。「2020年の私の、長期にわたる体調不良は、私に、そのことを悟らせるための、神仏の計画事項だったのではないかな・・・」と、私は思います。「神仏」は、「人類の様に、目に見える形での肉体も、人類と同じ形での言葉も、使いません」から・・・。「神仏達の、人類に伝える際の言葉(意思表示)は、霊的な作用による、超常現象が、神仏達の意思表示です」から・・・。もし、そうだとしたら、「今年の私が長い体調不良に成ってしまったのは、サッサと、肉体労働以外の働き方をサッサと定めろ!って、事だったのだな・・・」と、考えたら、なんとなく、納得してしまいます。「神仏達って、私に、昔からそういう伝え方を、して来て居ました」から・・・。そう考えると、「コロナウイルス騒動」も、現代人に向かって、神仏達が、「お前達人類は、いつまでも年を取らずに生きられる訳では無いのだから、自分達が年を取って肉体労働が出来なくなった時の為に、今から、肉体労働以外の働き方をサッサと定めろ!と、神仏たちが意思表示をしている様にも、見えます」よね。「コロナウイルス騒動による移動停止の現象」も、神仏たちが、「いつまでも今の様な交通機関がずっとあると思うな!もし、今の様な交通機関が無くなった時のことまで考えたうえで、人生設計する様にしろ!と、警告しているようにも、見えます」よね。だって、現代人が当たり前の様に使って居る交通機関は、太古の昔から、ずっと、続いているわけでは有りませんから・・・。現代人が当たり前の様に使って居る、交通機関は、明治時代以降に、作られたものですもの。明治時代以前の日本人達は、現代人の様に、電車やバス、車や飛行機、新幹線などと言った乗り物は、まだ、存在しませんでしたから・・・。それなのに、現代人は、渋滞がどうだとか、自分の家の近くに高速道路があるせいでうるさい!だとか・・・、はっきり言って、そんなの、ある意味、現代人ならではの、わがままですよね。だって、かつての日本(明治時代以前の日本)には、そんなもの、存在してませんでしたから、そんな文句、言えるはずが有りませんよね。私は、現代人は、あまりにも、色々と便利なものがご自分たちの生活に、当たり前の様に存在しすぎていることで、それらを使う事の意味や、喜びを、感じれなく成って来てしまっているのでは、無いでしょうか。だとしたら、そろそろ、「神仏達の、人類への目に見える形での警告が成されてくる時期」に入ってきても、おかしくは有りませんね。「神仏達の、人類への目に見える形での警告」は、「一体、どんな形で、人類に、警告が成されると、私のブログを読んで下さっている読者様は、思いますか?」それは、「地震であったり、台風であったり、洪水であったり、落雷による火災だったり、火山噴火だったりと、色々」です。つまり、いわゆる、「一般的に、天災と呼ばれている形での、意思表示」です。「天災」、それは、その名の通り、「天による、災い。」だから、「天災なの」です。だって、「神仏達は、人類の様な、肉体を使った生活は、基本的にしません」から・・・。だから、当然、「その意思表示も、肉体以外のものを使った意思表示に成る」のです。だから、人類は、ご自分の目の前に存在する、ありとあらゆる全ての物質たちの存在意義と、その意味を、改めて考え、その存在に、感謝するべきなのです。なぜなら、現代人が当たり前の様に使って居る全ての物質達は、現代人が作ったものばかりとは、限りませんからね。だから、この世に存在する全ての物質達に、感謝の念を持つのなら、ご自分達が持っているありとあらゆる物質たちを、無駄に捨てたり、むやみやたらと、ご自分達が持っているものを、ぞんざいに扱ったりなど、出来ませんよね。まして、自然界に存在する全ての物質たちは、元々、神仏達が作ったものです。それを、ないがしろにする人類に対し、神仏達は、どう、思うでしょうか?人類だって、作品を作る時が有りますよね。もし、ご自分が作った作品が、ぞんざいに扱われたら、嬉しいと、思えますか?もし、ご自分が作った作品を、ぞんざいに扱われたら、喜べますか?もちろん、いい気分はしませんよね。でも、人類はそれを、神仏達に対して、行っているのです。「自然界を大切にしない!と、言う、行動と、結果によって・・・。」では、どうしたら、「神仏達に、自分は、自然界を大切にしている!と、言う、メッセージを送れるのか?と言うと、当然、自然界に対して、何らかの形で感謝をしている事を、伝える事」です。「人類は昔から、感謝祭と言うものを、色々な国々で行って来ました」が、「現代日本では、感謝祭と言う言葉は、スーパーの売り出しの時ぐらいにしか、使われなく成って来ています。」「神仏達の目線から見た場合、そんな事をしている、現代日本人に対して、神仏達は、良い感情を持てるでしょうか?」もちろん、「怒らないまでも、呆れてしまいます」よね。もし、これを、「ご自分達の人間関係に当てはめて考えてみたら、どうなる」でしょう?もし、誰かが、ご自分に対して、呆れさせたり、ご自分が怒りたくなるような現象ばかり、引き起こしてくる方々ばかりだとしたら、そんなことをなさる方々に対して、ご自分は、どうするでしょう?もちろん、注意するか、怒るか、警告しますよね。でも、神仏達は、基本的に、人類よりも忍耐強いので、滅多な事では怒りませんし、警告もしません。神仏達は、基本的に、注意もしません。ですが、時々、「天災が起こる前の、前兆と言うものが発生する」場合が、有ります。それが、「神仏達からの注意であり、警告」です。そして、「神仏達からの注意や警告である前兆」が終わると、「本格的な天災が起こってしまう場合が多いです。」だから、もし、「この世のどこかで、天災が起こる前の前兆が発生したなら、必ず、何らかの対策を実行して下さい。」もし、「天災の前兆が発生したのにも関わらず、被害を少なくする為の対策を講じて措かなければ、必ず、何らかの形で、被害が前兆以上の影響を受ける事に成る」でしょう。でも、そんなの、私のブログを読んで下さっている読者様方は、そんな事、私に言われずとも、すでに、知っていますよね。でしたら、「あらかじめ、必ず、何らかの対策を取って下さい。」それこそが、「ご自分達の身の安全を保障する行動、です」から。私は、キチンと、自分の分の、防災リュックを用意しました。私のブログを読んで下さっている読者様方は、どうですか?防災リュックを、持っていますか?私は、自分用の防災リュックを、自分の使いやすいように、少しずつ、中身を入れ替えたりしています。私のブログを読んで下さっている読者の皆様方は、ご自分の防災リュックを、ご自分自身が使いやすいように、対応なさっていますか?日本は、昔から、地震が多い国です。だから、災害が無い、今のうちに、想定される対策を、取っておくべきだと、私は思います。日本には昔から、「備えあれば患いなし!」と言う、言葉が有りますよね。だから私は、「少しずつ、今の自分に出来る範囲内で、準備を進めています。」私の長い文章のブログに、最後まで付き合って下さって、本当に、有り難うございます。私のブログに少しでも興味を持って下さった方々、本当に、有り難うございます。そして、私の長い文章のブログを毎回、読んで下さっている方々、いつも、最後までお付き合いいただき、本当に、有り難うございます。また、私のブログを最後までお読みいただける様、努力いたしますね♡            えりりん

2020年の冬

皆様、今晩は。えりりんです。今回のテーマは、「2020年の冬」です。早いもので、今年も、残すところ、後、一ヶ月を切りました。皆様は、いかがお過ごしでしょうか?来月から、新しい年が始まります。今は、2020年最後の月、12月なのだから、当たり前ですね。12月は、私の誕生日が有る月です。そして、私の誕生日が来る前に、12月は、いろんなイベントが有ります。私自身の人間関係のイベントに属するもの、一般的なイベントに属するものと、色々です。一般的なイベントの中には、クリスマスイブや、クリスマスが有りますね。そして、私の誕生日が過ぎると、今度は、大晦日の有る、年末がやって来ます。今年の私の年末年始の帰宅は、クリスマスイブの日に、帰宅する予定でいました。しかも、今年は、今までとは違って、飛行機での、年末年始の帰宅をするつもりでいました。ですが、最近に成って、今年の年末年始の帰宅自体が、出来るどうか、怪しくなって来ました。理由は、実家に居る母が、今年の私の年末年始の帰宅自体に、異議を申し立てて来たからです。私は今迄、2017年6月15日に、私が山口県入りしてからというもの、私が実家のある埼玉県に帰宅する時は、いつも必ず、夜行高速バスで、帰宅していました。ですが、今年は、コロナウイルスの影響なのか、私がいつも乗って帰っていた、夜行高速バスは、今年の年末年始の時期のスケジュールには、高速バスのスケジュールは、存在していませんでした。ですので、今年の私は、夜行高速バスを使っての帰宅は、出来ません。仕方ないので、高速バス以外の帰宅方法を、パソコンで検索して調べてみました。電車系の乗り物を使った帰宅方法、船・カーフェリー、色々、調べてみました。ですが、どれもこれも、私が今迄行ったことのない方法での、帰宅方法しか、出て来ませんでした。悩んだ末、私は、実家に居る母と、高校生時代から付き合っている、親友の一人に連絡を取り、現状を訴えました。すると、母が電話で、「飛行機を使う!と言う、手もあるよ。」と、教えてくれました。私は、母から教わった通り、借り物のパソコンで調べてみました。そうすると、「格安航空を使えば、実家の埼玉県飯能市へ帰宅出来る!」と、分かりました。でも、「飛行機での帰宅方法」は、「今まで使った事の無い方法なので、躊躇しながらも、自分のスケジュールと、飛行機を使った場合の往復方法や、飛行機代を支払ってまで帰るなら、私が飛行機代を支払ってまで、私と一緒に飯能市へ、一緒にきてくれる人が居るかどうか、私が一人で帰るなら、私自身が確実に、実家へ帰れる方法を、調べなくてはなりませんでした。」「早く申し込んだ方が、格安チケットが確実に取れる事は、分かっていましたが、私自身のスケジュールと、飛行機のチケットのスケジュールとの、調整をして居る間に、母が最初に教えてくれた金額より、少し高めの金額に成ってしまいました。」でも私は、「結果的に、自分一人で実家に戻る事」に、しました。「私にとって、年末年始の帰宅の有無は、自分の家族をはじめとした、自分の家族や、親戚一族に会えるかどうかの瀬戸際」なのです。私は、「2017年6月15日に、私が山口県入りして以来、私がいつも羨ましく思いながら過ごしている 事は、年末年始や、お盆休み等の様な、自分の家族や、親戚一族達に、いつも、当たり前に会えている人達を見る事」です。「今の私にとって、私が自分の身内との交流が有り、自分の身内達との交流を、当たり前に過ごせる事、そのものが、どれだけ、私自身にとって、とても大切で、とてもありがたい事だったのか」を、改めて、思い知りました。そして、以前、読んだ、「アンジェリーク」の本の内容のワンシーンを、思い出しました。私が今回、ここで言っている、「アンジェリーク」とは、私が昔、自分のお小遣いで買って、自分の好きな時にしていた、「アンジェリークと言う名前の、スーパーファミコンのゲームソフトが基に成った本」の事です。私が「アンジェリークと言う名前の本」を買ったきっかけは、「私がずっと気に入っていたゲームソフトである、アンジェリークと言う名前のゲームソフトが、コミック化された内容の本」だったからです。私は、ゲームも、アニメも、コミックも、大好きですが、だからと言って、ゲームだけ、アニメだけ、コミックだけを、している訳は、有りません。当然!!ですが。私がアンジェリークと言う名前のゲームソフトを気に入った理由は、「私の大好きなラブロマンスのストーリー内容」で有りながら、「自分だけの大陸を育てる事が出来る!」と言う、理由でした。「私が、本を買う時の基準」は、「すでに、私の以前のブログでお話した通り」ですが、「私がゲームソフトを買う時の基準」も、「私には、存在していますが、その判断基準は、私が本を読む時と言うタイトルの私のブログに書いた通りの判断基準と、大差ありません。」あえて言えば、「私がゲームソフトを買うかどうか」は、「当時の私がゲームをする時間帯は、夕食を済ませて、後は寝るだけ!の時間帯である、午後8時~午後10時迄の時間帯が、一番、多い時間帯」でした。その為も有り、「私は、怖い内容のゲームソフトを買う事は、ほとんど、有りません」でした。「私が好きな内容のゲームソフト」は、「シムアースや、シムシティの様な、育成もののゲームソフト」と、「恋愛もののゲームソフト」、「ファイナルファンタジー6の様な、ロールプレイングゲームソフト」、「ぷよぷよや、テトリスの様な、パズルゲーム」が、「私は、とても大好き」でした。「私が好きなゲームソフト」は、「私が好きな本」と、だいぶ近く、「当時の私が何が好きか?が、色濃く反映された商品選びに成っている」と、思います。私にとって、「私が長く愛用するものは、その時点での私が、一番、何が欲しいと感じるか?が基準に成っている」ため、「私自身が嫌いなものは、どうしても、欲しくない!」と、感じてしまいます。私にとって、「その時点での私の買い物」は、「その時点での私が欲しいと感じるもの=その時点での私自身が好きなもの・あるいは、その時点での、私が必要としている何か・その時点での私が体験してみたい何か・その時点での私が新しく出会いたい何かが基準に成っている」為、「ゲームの様に、私の自由時間の間にしか、実行できない事は、どうしても、自分自身が心底、欲しい!と、感じているものや、自分自身の好きなものにしか、エネルギーを注げません。」私にとって、「ゲームをする時間」は、「私自身に、比較的自由に使える時間が少しでも出来た時であり、私自身がホッとしたい!と、心底思っている時でもあり、私が、何かからの気分転換をしたい時でも有るから」です。「自分自身が、普段の生活で、ストレスを感じている時」に、「ご自分自身の嫌いな内容のゲームに、自分がゲームをするためのエネルギーや、ご自分が嫌いな内容のゲームに、専用の時間を使う気になれますか?」って、事ですね。だから、「ある意味、私が好きで読んでいる本の内容と、私が好きでしているゲームソフト内容が、同じタイプだとしても、ある意味、当然の結果」なのです。その理由は、「自分自身が、心底欲しい!と、自分自身が感じているかどうか?を基準に選んでいる」から・・・。「こんまり流片付け」の中に出てくる、「ときめきを基準に、残すものを選ぶ!」と言う方法は、「分かりやすく言うと、普段の自分自身が、一体、何に興味を持っていて、普段の自分自身が、一体、何を大切に感じているか?と言う事」です。逆に言うと、「普段の自分自身が大切に思っていなかったり、普段の自分自身が興味のない何かに対して、それを、大切に思ったり、それに対して、興味を持てるか?って、事」ですね。「私は昔から、片付けが下手」なので、「時々、片付けに関する本を買っては、片付けの勉強をしています」が、「片付けの本を読んでいて私が思う事」は、「たいていの人は、ご自分が持っているものに対して、なんで、自分自身がそれを手に入れたのか?」と、向き合わずに、「部屋を散らかす=部屋を散らかしている根本原因となる物質=部屋を散らかしているもの=部屋をきれいにするためには、手放すべきもの=憎らしい物質!」と、判断した結果、「ご自分が手放すべきもの=捨てるべきもの=ゴミ!と、判断している」のでは無いかと、私は思います。その結果、「ご自分自身が持っていたものを捨てる」時、まるで「憎々しいものを手放すときの様に、いかにも憎らしいものが、大量に自分の部屋に何時までもある!と言う感じの態度で、物を捨てている人ばかりなのではないかな・・・」と、私は、つくづく、感じてしまいます。「私は、基本的に、こんまり流の片付け方法には賛成です」が、私には、どうしても、受け入れがたい、片付け方法」が、有ります。それは、「本と書類に関する項目と、思い出のものに関する項目と、季節に関する項目」です。理由は、「私は、昔から、本を読む事自体が大好きなので、私自身が、心底欲しい!と、思って、買った本ばかりなので、こんまり流の片付け方法で、私の部屋にある本の数が、少なくなる!とは、到底思えませんし、無理ではないかな・・・」と、思ってしまいます。それから、「書類について」ですが、「私の部屋に有る書類」は、「どこかからか貰って来た紙類だけでは有りません。」理由は、「私は昔から、文章を書く事自体が大好き」なので、「私の部屋には、私自身が書いた、色々なメモを始めとする色々な書類」が有ります。私は最近、「私が学生時代に成りたかった職業の中に、小説家や、作家に成りたかった!と言う事実」を、思い出しました。「作家」も、「小説家」も、「文章を書く事を、仕事にしています。」まして、「ご自分自身が書いた文章を、いくら、場所を取るからと言って、全捨て!なんて、出来ません。」だから私は、「片付けが下手なくせに、書類だけは、自分自身がこれなら、キチンと書類を整理できるし、キチンと、書類を綺麗に片付けられる!と、言う方法を、自力で見つけてしまいました。」「その方法」とは、「私お気に入りの、A4バインダーと、ルーズリーフを使った、片付け方法」です。私は、「昔から、誰かに決められた方法」を、「そっくりそのまま実行しようとすると、必ず、失敗してしまいます。」それは、「その方々にとっては、理想の方法」なのでしょうが、「私が誰かに決められたことを、そっくりそのまま実行しようとすると、必ず、長続きしません。」「その根本原因」は、たぶん、「その時点での私がやりやすい!覚えやすい!と、感じないから」かも知れません。私は、「昔から、自分自身が覚えやすいこと、その時点での、私がやりやすい事、その時点での、私が認識しやすい事と、その時点での私の妹にとって、理解しやすい事・その時点での私の妹にとって、認識しやすい事・その時点での私の妹にとって、興味の有る事を中心に、話題にする事を大切に生きてきました。」「そうしないと、どんなに、私の為に成る情報」でも、「その時点での、私自身の身につかないから」です。「そうしないと、その時点での私」が、「どんなに一生懸命、覚えよう、学ぼう、努力しようと思い、実行しても、必ず、いつも、失敗してしまいます。」「私が、何かに対して失敗する理由」は、「私自身に、実行する気が無いからでは有りません。」「私自身が、何かに対して失敗する時」は、「私自身に、努力をする気が無いからでもありません。」「私自身が、何かに対して失敗する、一番の理由」は、「その時点での私にとって、覚えにくい事、その時点での私にとって、実行しにくい事、その時点での私が、認識しにくい事が、根本原因」です。その為、「その事実を知らない方々」は、「お前にやる気が無いからだ!とか、お前は、努力をする気が無いからだ!とか言って、私の事を攻めまくります。」ですが、「その時点での私に、実際に起こっている事は、違います。」「その時点での私」にとって、「覚えやすい事・やりやすい!と、感じる事・その時点での、私にとって、認識しやすい事」なら、「私に教えて下さる内容が、私自身の身につく様に成って来ます。」つまり、「私が誰かに教わった内容が、私自身の身につくかどうか」は、「その内容を教えて下さる方々がの教え方が、その時点での私にとって、非常に分かり易い内容なら、すぐに覚えます」が、「その時点での私にとって、非常に分かりにくい内容」であれば、「いくら、私自身の為に成るようなタイプの教えでも、私自身の身につく事は有りません。」つまり、「私自身が、何かを覚える時に必要な事」は、「私の教育者側が、その時点での私にとって、理解しやすい話し方をなさっているかどうか?」で、決まります。その為、「通信教育にしろ、教育施設での学びにしろ、私の場合は、その時点での私にとって、理解しやすいかどうか?」で、「その時点での、私の学びが成功するかどうかが、決まってきます。」その為、「私は、何かを本気で学びたい!」と、思ったら、「その時点での、私にとって、必要な情報を教えて下さる方々の中から、その時点での私にとって、理解しやすい内容で話すタイプの方々かどうかを、見極める必要」が、有ります。だから、「その見極めがキチンと出来ていなければ、私の場合は、いつも、努力するだけ無駄!と言う結果に、成ってしまいやすい」です。だから私は、「その時点での私にとって、私自身がキチンと、その時点での私にとって、理解しやすい内容で話すタイプの方々かどうか?の見極め」は、「私が、何かを本気で学ぼうとする際、絶対に必要な作業」と、成って来ます。私は、「私が山口県入りする、ずっと前から、私の教育者は、自分で探す!と、決意して以来、私の為の教育者をずっと、真剣に探して来ました」が、「その根本的な理由」は、「その時点での私にとって、理解しやすい内容で話すタイプの方々かどうかを見極める必要が有った」からです。「この世には、色々な情報が飛び交っています」が、「私にとって重要」なのは、「その時点での私にとって、必要な情報であるか?と、その情報の信ぴょう性、その時点での私にとって、ためにる情報かどうか、そして、その時点での私にとって、ためになる情報である場合、その時点での私にとって、理解しやすい内容で話すタイプの方々かどうか?」で、判断します。それに対して、「私以外の方々が決めた方法で、私自身が従わなければならない」場合、「私はいつも、何かを学ぶのに、とても時間がかかってしまう事が多く、私はいつも、やっとの思いで学ぶべきことを認識することが多いため、私はいつも、何かを学んだあとは、精神的に疲弊してしまいます。」その為、私はいつも、「何かを勉強した後」は、「必ず、私自身の疲れを取る時間と、私自身の疲れをとる方法を確保」しなければ成りません。もし、これが「学校での学び」なら、「いつも、キチンと、決まった休み時間が有ります」が、「家の中での学び」の場合、「毎回、自分自身が意識して、キチンと、自分自身に休み時間を与えてあげなければ成りません。」その為、「私は、キチンとした、教育施設での学びの場は、とても、ありがたいもの!だと、認識出来る」様に、成ってきました。そして私は、「キチンとした教育施設での学びの場」は、「人類が存続する限り、例え、形が変わっても、絶対に無くしてはいけないもの‼」だと、私自身は、思っています。「人類の学びの為の方法」は、「時代によって、多少変わっていくのは、仕方ない!とは思います」が、「時代が変わったから」と言って、「人類の学びの場が完全になくなることは、有ってはならない、とても大事なものである!」と、私自身は思っています。「人類が学ぶ事を止める事、それはすなわち、人類のすべての可能性を閉じる事に等しい‼」と、私は、思います。「学生」は、「お勉強をする事自体が、お仕事」ですが、「社会人」も、「一般の方々」も、「何かに対する学びは、必要」だと、私自身は思っています。「自分自身が、心底、何かを覚えたい!と、本気で思っている時の学び」は、「とても楽しいもの」だからです。「学生」は、「お勉強をする事自体が、お仕事」なので、「学校での学びそのものを拒否する事自体は、許されません」が、転校をしたり、通信教育と言う方法を使ったり、今なら、オンラインを使った通信教育と言う方法を使って、お勉強をするのは、有り‼だと、私は、思います。「社会人」や、「一般の方々」は、「お勉強をする事自体が、お仕事では無い」為、「本来、お勉強をしなくても許されます」が、「自分自身の将来と、自分自身の可能性を永遠に閉じたくない」のであれば、「自分自身が興味を持っている事や、自分自身が心底、学びたい‼と、思っている事」については、「自分自身が、自分自身のペースでお勉強をしてもいい‼」と、私は思っています。ですが、「私達は、機械では無い」為、「一定時間、何かをすると、疲れてしまう時間帯」が、来ます。「その時に重要」なのは、「自分自身で、必要な休み時間を、必要なだけ、確保する事」です。「今の世は、コロナウイルスの影響で、オンライン化される事が多く成って来ている」と、思いますが、それはつまり、「自分自身の意志で、自分自身の為の、休み時間そのものを、自分自身の為に、確保しなければならなく成って来ている!と言う事」です。皆様は、「コロナウイルスによる、オンライン化」を、どう、思っていますか?「私自身は、基本的に、コロナウイルスがどうとか、オンライン化がどうとか自体には、興味は有りません。」ですが、「コロナウイルス」については、「この世に新しいタイプの病気が、また一つ増えたなぁ・・・とは、認識しています。」そして、「オンライン化」については、「また一つ、この世に新しい考え方が、増えたなぁ・・・とは、認識」しています。ですが、「何時の時代にも、新しい病気は必ずどこかで、発生しているもの」だし、「オンライン化の様な、新しい手法も、人類が存在し続ける限り、必ずどこかで、新しい手法も、生まれます。」「私にとって、コロナウイルスも、オンライン化も、それ自体には、興味は有りません。」ただ、「それが存在する事によって、私達自身の生活に、どういう影響が発生するのか?の方に、興味」は、有ります。「昔から病気ばかりしてきた私」にとっては、「どんなに恐ろしい病気も、所詮、単なる厄介な病気の一つである」としか、認識していません。ですから、「私にとって、コロナウイルスの様な、厄介な病気」は、「一日も早く、無くなればいいのにな・・・」としか、思えません。「オンライン化」については、「新しい手法が存在する事によって、私達自身の生活が、より良い方向に行って下さる方法であれば、私自身としては、大賛成」です。ですが、「全ての分野に、オンライン化を強制する事自体は、止めて欲しい」です。「人類が、人類の為に作る物の全て」には、「向き、不向きが有るから」です。そして、「機械化出来る事と、出来ない事だって、有ります。」「人類の作る物の全て」には、「必ず、どこかに、限界や、無理が生じます。」そして、「それは、事実」です。「神仏が創造なさるもの」には、「必ず、それが一番、自然と調和出来る様に、それが永続する様に作られています」が、「人類が作る物」には、「自然と調和出来ないものが多いうえ、人類が作る物には、必ず、限界が有ります。」そして、「それ故に、人類が作る物には、必ず、寿命が有ります。」そして、「人類が作った物の寿命が来たら、必ず、ゴミとして、廃棄されます。」そして、「ゴミとして廃棄された全ての物質達は、たいていの場合、自然界に悪影響を与えます。」「日本人は昔、エコロジーと言う言葉」は、「知らなかった時代が有りました」が、「当時の日本人は、まさに、エコロジー的な生活を、ご自分達で、実践しながら、生きていた時代が有りました。」それに比べて、「21世紀の世を生きている、私達、現代人は、どうでしょうか?」「エコロジーと言う言葉を使っていながら、全然、エコロジー的な生活が出来ていない」とは、思いませんか?私は昔、「父方の祖母が、ご自分の家で、一生懸命、ご自分自身で、色々なものを作ったり、色々なものを自力で直していたりしていたのを見て、お婆ちゃんって、凄いんだな~、何でも、出来ちゃうんだ~‼と、本気で思っていた」事が、有ります。今は、父方の祖父母も、母方の祖父母も、既に、私が山口県入りする直前までに亡くなってはいますが、その頃の事を、私はまだ、覚えています。ですから私は、現代人も、かつての父方の祖母の様に、何でも、自力で直せる方法を、改めて入手するべきだと、私は、思います。話を元に戻すと、今回のテーマは、「2020年の冬」です。私は、今年の年末年始の帰宅を予定してはいましたが、最近、母に、コロナウイルスの影響だけではなくて、これからの世の中、物騒な世の中に成りそうな気配が有るから、今年の年末年始の帰宅を止める様にと言われてしまい、せっかく、高いお金を出して飛行機のチケットを取ったのに、私が帰宅しても、母達が喜ばないのであれば、私は、実家に帰るのは、無意味だと思う様に成りました。ですので、私は、今日、今年の年末年始の飛行機のチケットの予約は、キャンセルしましたので、山口県下関市内で、過ごす事に、成ると思います。今の私達に、余計な出費は、慎まなければ、成りませんから・・・。それに、無駄な出費に対して、お金を使うより、今の私自身に対して、もっと、価値のあるものに対して、不要になったお金を使う方が、よっぽど、私自身の為にもなるし、私の手元から出て行ったお金自身も、喜んでくれると、私は思います。今の私のお金の使い方は、そう言う使い方です。それが例え、私のブログを読んで下さる方々ご自身の、お気に召さない方法だったとしても・・・です‼それが、私です‼それが、今の私の考え方、です‼そして、それは、真実です‼話を元に戻すと、今回のテーマは、「2020年の冬」です。「冬」と言う事は、「今の季節が、冬」だと、言う事です。「今が冬」だと言う事は、当然のことながら、「一年の中で、一番寒い季節がやって来た」と、言う事です。皆様は、今、どんな服装をしていますか?「私は、冬生まれのくせに、昔から寒いのが苦手で、少しでも、冷たい風にあたってしまうと、私は子供の頃から、良く体調不良に成ってしまっていました。」その為、私が親元に居る間は、良く、昔から、私が風邪をひかないように、色々と工夫をしてくれたり、私が風邪をひかないで済む様にする為に、必要な対策は、毎年、キチンとしてくれていました。私が静岡県下田市に行った後でも、母達は、子供の頃から風邪をひいたり、お腹を壊してしまいやすかった私を気遣い、常に私が寒い思いをしないで済むような対策を、毎年して下さっていました。「日本人は昔から、子供は風の子元気な子!と言う言葉と、風習が存在します」が、「その言葉に反してしまっていた子供が、子供の頃の私」でした。「この世の中には、何にでも、例外というものは、存在する」のです。その為、「ご自分自身が理解出来ないからと言って、他人を疑ったり、他人をむやみやたらと、攻撃する為の判断材料にしてはなりません。何故ならそれは、他人に対する思いやりが無いから」です。「他人に対して、本当に、思いやりの心が存在する」のなら、「例え、他人を疑ってしまったとしても、それが理由で、他人を直接攻撃する気持ちなど、最初から生まれません」し、「例え、他人を攻撃したくなる気持ちが、その人自身の心に生まれてしまったとしても、攻撃したい!と、感じてしまった人間に対して、他人を思いやる心が存在するがゆえに、本気で、その人を攻撃する気持ちには、本来、なれないから」です。「他人に対する思いやりの心」さえ有れば、「この世に存在するほとんどの争い事は、最初から、存在しない」のです。それなのに、「この世界に争いごとが存在する」と言う事は、「他人に対する思いやりの心が、現存する人類の心の中から、消えつつある‼」と、言う事です。「私のブログを読んで下さっている皆様方は、この事実を、どう、判断なさいますか?」やはり、ご自分自身が、私を理解できないがゆえに、私の事を直接攻撃したくなっていますか?それとも、ああ、やっぱり・・・と、感じたでしょうか?それとも、やっぱり、私の事を無視する!と、決意なされたでしょうか?私自身としては、どちらでも構いません。何故なら、「それを選ぶのは、私のブログを読んで下さっている、読者の皆様方です」から。ただ、「それを判断なさる時に、気を付けて欲しい事が有ります。」それは、「ご自分自身の選択肢によって、私のブログを読んで下さっている方々の、将来に直結する判断に成ってしまうかもしれない‼」って、事です。日本の現在の法律では、他人を攻撃したら、それなりの処罰を受ける事に成ります。それは例え、個人レベル、会社レベル、国レベル、どれでも、同じです。したがって、「もし、誰かが、誰かを殺したことによって、死刑判決を受けたとしても、人間が人間を殺したのだから、ある意味、仕方ありません。」ですが、「本来、どんな理由があったとしても、むやみやたらと、他人を攻撃してはならない」のです。「戦争は、悲劇しか、生みません。」ですが、「たとえ、戦争まで行かなかったとしても、争い事は、争い事です。」「人間が、人間である限り、出来るだけ、平和的な解決策を、模索しなければ成りません。」「この世に存在する、ありとあらゆる宗教に共通する考え方は、神仏は、むやみやたらと、他人の命や、他の動物達の命を奪ってはならない‼と、教えている」と、私自身は、思っています。何故なら、「本当に聖なる存在」なら、「ありとあらゆる命が、愛しくて愛しくてたまらない‼と、感じている筈」だからです。どうして、「他人の命や、他の動物達の命が、愛しくて愛しくてたまらない‼と感じている存在が、他人を攻撃しようなんて、考えられる」のでしょう。どうして、「他人の命や、他の動物達の命が、愛しくて愛しくてたまらない存在なら、誰かを殺しても平気‼なんて、考え方が出来る」のでしょう。それは、「愛しいと言う言葉」には、「愛」と言う、漢字が含まれている通り、「他人を愛する心が、存在している」からです。「本当に、愛にあふれた存在」が、「誰かを攻撃する気持ちになんて、成れますか?と、言う事です」ね。「本当に、愛にあふれた存在」が、「誰かが、誰かを殺そうとする現場を見たら、怒りより先に、悲しみが先に立つ‼」と、私は思います。「私の場合」は、「怒りより先に、悲しみの方が先に立つ事も有ります」が、「たいていの場合は、・・・これだから、人類は、低レベルなんだな・・・と、認識する方が、先に成って」います。そして、「これだから人類は、何時まで経っても、進歩も発展もしないんだな・・と、更に認識する羽目に成ります。」そして、「人類に対して、呆れと、怒りを感じる羽目‼に成ってしまいます。」「私のブログを読んで下さっている、読者の皆様方は、どう、認識なさっていますか?」ですが、「ご自分が、誰かに直接攻撃されそうなときは、そうも言ってられません」よね。「では、どうすればいいのか、考えたことは有りますか?」「私なら、直接攻撃されそうな時は、とりあえず逃げるか、防御するか、回避します」が、「可能な限り、平和的解決の道を、出来るだけ模索します。」ですが、「どうあっても、戦いの道しかついていない時」は、「仕方なしに、戦う事も有るかも」知れません。ですが、「戦争も、戦争までいかない争い事も、基本的には、人間同士が争っているだけ」なので、「本来は、どんな争い事も、争い事を終了させること自体は、本来、可能なの」です。ただ、「争い事に夢中に成っている方々ご自身が、その事実に気づいて、自力で、平和的解決をしようとなさるかどうかで、結果は、変わってきます。」私は、「国のトップたるものは、トップであるがゆえに、どんな争いごとも、可能な限り、平和的解決を、模索してほしい‼」と、本気で思っています。「国のトップの方々なら、国民が知らない情報まで、入手出ている筈」です。そして、「それ故に、一般の方々が思いつかない、より良いアイデアが出て来る方々ばかりであると、私は子供の頃、信じていました。」ですが、「国のトップレベルの方々であっても、どうしようもない現状も有るかも知れません。」ですが私は、「国のトップレベルの方々には、どうしても、平和的解決を諦めて欲しくは有りません。国のトップレベルの方々の争い事は、戦争に成りやすい」からです。私が生まれた時は、父親は、既に国家公務員でした。「その為、私は、この世に存在する全ての国家公務員の方々」には、「一般の方々が納得するような、税金の使い方や、一般の方々が思わず尊敬してしまうような、そんな存在に成って欲しい」のです。そうすれば、「この世に存在する日本国民のほとんどは、日本政府と、日本の政治家の方々と、日本の国家公務員に対して、不満を持つ必要は無くなる」でしょう。「そして、それこそが、私が日本政府と、日本の政治家の方々と、日本の全ての国家公務員に対する、願望です。」たとえ、「今すぐ全てを変えられなくても、少しずつ、現時点で出来る方法で、確実に、良い方向へ変えて行けば良い」のです。「そうすれば、いつか必ず、目に見えて変化が現れる時期が、必ず、来ます。」私は、「日本政府なら、日本の政治家の方々なら、日本の国家公務員の方々が、本気でそう思って、本気で実行なさるのなら、必ず出来る‼」と、思います。私は、「日本政府と、日本の政治家の方々と、日本の国家公務員の方々と、日本国民との間に、余計な争い事が起こってしまうのを見るのは、私は、とても悲しいし、とても辛い事」です。ですが、「日本政府や、日本の政治家の方々や、日本の国家公務員の方々に、それが出来ない現状に有るのは、私自身としては、とても悲しい事」だと、私は、思っています。私は、「日本政府なら、日本の政治家の方々なら、日本の国家公務員の方々なら、必ず出来る‼」と、思います。そして、「それこそが、国のトップたる者達の務め」だと、私は思います。私の長い文章のブログに、最後までお付き合い下さって、本当に、ありがとうございます。私のブログに、少しでも興味を持って下さった方々、本当に、ありがとうございます。そして、私の長い文章のブログを毎回、読んで下さっている方々、いつも最後までお付き合いいただき、本当に、ありがとうございます。また、私のブログを最後までお読みいただける様、努力いたしますね♡              えりりん

私が本を読む時

皆様、おはようございます♡えりりんです。今回のテーマは、「私が本を読む時」です。私は、「子供の頃から、本を読むのが、とても大好き」です♡もちろん、「大人になった今でも、本を読むのは大好きです」が、「今の私が今迄全然読む気に成れない!と言うタイプの本も、世の中には存在」します。「この世には、色々な考え方をする方々や、いろんな国々が存在するのですから、ある意味、当たり前です」ね。では、どんなタイプの本を、「大人になった後の私が読むタイプの本」と、「読まないタイプの本とに分けるのか?」を、まず最初にお話ししようと思います。私の場合は、まず、「その時点での私にとって、その本が、心底欲しいかどうか?」です。「私が読む本」は、「漫画から辞書や六法全書の本まで、幅広いタイプの本を読みますが、共通して言える私の本選びは、その時点での私にとって、その本を、心底、欲しいかどうか?」で選びます。「私は依然、その本を買う時の基準の一つに、これは、安いから買う!と言うタイプの基準を持ち込んでいた事が有りました。」あるいは、「せっかく、本屋さんに来たけど、今日は、特に、これと言って欲しい本が無いな~。今日は、本屋さんで買うの、どうしよう・・・。今日、本を買わないと、しばらく、本屋さんに来れないんだよな~!!ええ~い、いいや、安くていつも買ってるタイプの本の続き、買っちゃえ~!!」と、言うタイプの基準で、私が比較的いい加減な気持ちで本を買うための基準にしていた事も有ります。ですが、「私がその基準で選んだ本って、はっきり言って、いつも買っている本の続きなら、確実に続きを読みます」が、「短編物の本なら、私の場合は確実に、その本を買った事自体に、後悔している事が多い」です。そして、「その本を買った事自体に、後悔するようなタイプの本」って、「日が経つにつれて、年月が経つにつれて、私は、確実に、その本を読むこと自体に興味を示さなくなり始めます。そして、私がいい加減な気持ちで買った本って、その後、確実に、その本を買うために使ったお金と時間、私がその本屋さんに行くために使った労力を考えたら、とてもじゃないけど、私は、その本を持っている事自体に、嫌気がさし始めます。そしてその後、私は確実に、その本に興味がありそうな人達を探し始めます。そして、その本を貰って下さる方々が見つからない場合は、古本屋さんに買ってもらうか、フリーマーケットやバザー、リサイクルショップに持って行って、売ります。もし、それでも売れ残るようなら、最悪の場合は、ゴミとして捨てます。私は、このタイプの本の買い方を、一時期、続けてしまっていましたが、今では、そんな馬鹿げた、本の買い方はしません。何故なら私は、お金持ちの様に、湯水のごとく使えるお金は存在しないからです。」それに、「私がその本を買う時の基準に、私がいい加減な気持ちで、その本を買ってしまっては、せっかく、その本を書いた作者や、その本を作るために一生懸命働いて下さった方々に、私は、失礼な気がしたので、今の私はもう、自分自身が、心底、欲しい!!と、心の底から感じ取れるタイプの本しか、購入しない!!事に決めています。」だから私は、自分自身が、その本と出合うまで、そして、その本を、噂話やCMでしか、知らないタイプの本は、私は、すぐには購入しない事にしています。でもそれは、「その時点での私にとって、その本を購入する事自体の意味と、存在自体が、まだ、解らないから」です。それに、「噂話やCMの中で、例え、私自身にとって、興味の有る本だったとしても、金額が分からなければ、その時点での私が買える金額なのかどうか、分かりません」よね。第一、「噂話の中で出てくる本は、その本の存在自体が、怪しい」です。「まともな知識と、まともな判断力を持つ方々なら、分かっていると思いますが、夢の中で読んでいた本が、この世に存在するとは、限りませんよね。私にとって、噂話やCMの内容だけで、その商品を購入するかどうかを判断しないようにしているのは、そう言う理由が有るのです。この世に存在しない本など、誰も、買いたくても、購入出来ませんからね・・・。」その次に、「私が本選びをする時の基準は、その本が、その時点での、私の経済状況で買えるタイプの本が有るかどうか?」で、決めます。何故私が、「その時点での私にとって、その時点での私の、経済状況で買えるタイプの本かどうか?にこだわるのか?と言うと、理由は単純に、借金をしてまで買う気には、成れないから」です。私にとって、借金をする人間は、信用出来ないタイプの人間に入ります。だから私は、自分が借金をする事の無い様、本当に、気を付けて生きています。だから私は、絶対に、クレジットカードを持たない様にしていますし、誰かと一緒にいる事で、私が借金をしなければずっと一緒に居られない様な生き方や、人間関係は、私にとっては、絶対に我慢できません。そんな生き方を、今の私が永久に強いられるような人間関係や現状は、今の私には、必要無い為、現状打破のため、色々な情報を集めて、今の私に出来る範囲内での、行動をする事に成ります。その為、私は、自分自身で稼いだお金の範囲内でしか、あるいは、その時点での私が、所持している金額の範囲内でしか、行動出来ない事に成ります。だから私は、もし、誰かが、私に借金をすることを強制してくるようなタイプの方々に出会ってしまったなら、私は出来るだけ早く、その人間関係を清算しなければ成りません。私が、誰かに借金をすると言う事は、私自身のプライドに傷がつくし、余計な自己嫌悪のもとに成るし、私が借金をしなければならなくなった方々に、私自身の行動の自由を奪われるからです。だから私は、もし、私に借金を強制させるタイプの人間関係に出会ってしまったなら、私は、自立できるだけの金額が貯まり次第、私は、サッサと、その人間関係を手放す事でしょう・・・。私が、誰かに借金をして居る間は、私に借金を強制させたタイプの人たちと一緒に居なければ成りませんから・・・。私にとって、私に借金を強制させるタイプの人間関係は、サッサとその人間関係を消去しなければ成らない人間関係だからです。私にとって、私が誰かに借金をすると言う事は、私が借金を強制された方々の奴隷になる事に等しいからです。ですから私は、もし、私が、誰かに借金を強制されるようなタイプの人間関係に出会ってしまったなら、私は、その人間関係を消去させる為に、動くでしょう。私は、奴隷では有りません。それに、もし、誰かが、奴隷制度の存続を望むのなら、もう、それはすでに、時代遅れです。今、時代は、急激に変化しつつありす。占星術師の方々の解説によると、今まで続いた時代は、地の時代(山羊座の時代)だそうです。つまり、私達が今まで生きてきた時代は、私が生まれた星座の、山羊座の力が支配する時代だった!と、言う事に成ります。山羊とは、単独では、基本的に行動しません。野生のヤギを見れば、分かりますよね。野生の世界のヤギは、必ず、肉食動物に狙われます。そして、肉食動物の犠牲となって初めて、肉食動物は、その生存を保てるのです。だから、今まで私達が生きて来た時代には、一般の方々にとって、不本意な出来事が、とても多かったのだと、私は理解しました。そして、草食動物達は、自分達の身を守るために、必ず、グループ単位で行動します。その為、自分達の身を守れる場所の確保が、必要でした。そこでは、メス山羊が子供を産み、子育てをしているのです。ここまで書くと、勘の良い方々なら、何かに、気づきますよね。そう、つまり、私達が今まで生きて来た時代の有り方に、似ているのです。人間は、基本的に、一人だけでは生きていけません。すなわち、グループ単位で行動する!と、言う事です。そして、自分達の身を守るための場所の確保、つまり、家が必要と言う事に、成りますよね。私達人類が繁栄するためには、家族を作って、子供を産んで、子育てすることも、重要です。でも、自分達の身を守る為に必要な、専用の場所の確保は、どうしても、必要ですよね。だから、私達が今まで生きて来た時代には、家の必要性が高く、不動産業界が儲かっていた時代だったのです。ですが、もうすぐ、時代は変わります。占星術師の方々の解説によると、地の時代(山羊座の時代)が終わったら、次の時代を支配する星座は、水瓶座だそうです。水瓶座の時代は、風の時代だそうです。つまり、最近、風の時代、風の時代と、騒がれていますが、その情報の根本原因は、占星術から来る情報だったのです。今はまだ、地の時代である山羊座の力が支配していますが、いずれ、水瓶座である、風の時代へと変化していくそうです。「私達の生活に影響する力の一つに、星座の力が関係していた」んですね。私、占星術師の方々の動画を見る事で、初めて、納得しました。何故、今まで、「私達の生活の中に、星占いと言うタイプの占いが、私達の生活の中に、存在していたのか?については、改めて気づきました」が・・・。でも、一般の方々は、「星占いと言う言葉は知っていても、占星術と言う言葉の方は、知らない方々も居る」と思います。ですが、「占星術と星占いは、言い方の違いはあっても、同じ物事を意味している!と、言う事実」に、気づいて下さい。すなわち、「星占いと言う言葉」は、「子供にも解る様に、占星術と言う言葉を解説されただけの言葉」なのです。私は、占いや、おまじない、伝説や、神話も大好きなので、当然!星占いの本も、神話や伝説に関する本も、私は、持っています。一口に、占いと言う言葉を使っても、この世に存在する占いは、占星術=星占いだけでは有りません。私達は、私達が生まれた時からずっと使って居る、名前にも、占いと言う分野は、存在するのです。だから当然、本屋さんや、図書館に行けば、占いコーナーが存在します。ただし、本屋さんや、図書館の中の占いコーナーでは、占い師は居ません。何故なら、本屋さんや、図書館の中の占いコーナーでは、あくまでも、本選びが楽になるように、専用のコーナーを用意してあるだけだからです。でも、これからの時代の本屋さんは、占いコーナーの中に、占い師を定期的に置いてもいいかも知れません。なぜなら、占いの本を買うお客様にとっては、タロットカード占いや、占星術の様に、プロの占い師に使い方や占い方を教えてもらわないと、自力で占いにくい占いも、存在するし、プロの占い師達にとっては、ご自分が活躍する場が新たに、増えるからです。それに、私の様に、中には、占い師に成りたい!と、思っている方々にとっての、プロとの交流は、非常に、貴重な時間と成るからです。それに、本屋さんにとっても、プロの占い師に、占いの仕方を本屋さんで教えてもらえたら、案外、その占い師との交流があった分野に関する占いの本が、売れる様に成る機会が増えるかも知れません。一般人は、占いが大好きな人が多いですが、だからと言って、自力で、占いが出来る方々ばかりでは有りません。中には、私、占いなんて、興味ないの!なんて言っている人でも、コッソリ、誰かに占ってもらっている人だって、いたりします。誰かに、自分が本当は占いに興味がある事を知られたくないのであれば、案外、自力で占っている方が、ばれずに済むかもしれません。だって、自力で占えれば、自分の部屋の中で出来るのに、誰かに占いをしてもらったら、その人のところまで、自力で出かけなければ成りません。はっきり言って、隠し事をするのに、自力で交通費を使って出かける!っていうのは、はっきり言って、リスクが大きいと、私は思います。ですが、私は「そもそも、隠し事をしなければ、余計な気遣いや、余計なトラブルに巻き込まれずに済むのに!!」って、私は、そういう人たちを見るたび、いつも、思ってしまいます。隠し事というのは、いつかは必ず、ばれるものです。だから、誰かに、自分がしている隠し事がばれたせいで、余計なストレスを抱えたくなければ、最初から最後まで、自分にも、他人にも、正直であるべきなのです。そうすれば、ご自分の隠し事がばれたことによる、ストレスを抱え込まずに済みますからね・・・。それに、もし、ご自分が、誰かに隠し事をされたら、貴方方は、その方々を、心底、信用するでしょうか?その次に、「本を選ぶ時の選び方は、その本が、この世に存在する本かどうか?」です。「なに、変な事言ってるの、この世に実在しない本など、存在しないでしょ。」と、思われる方々も、存在するかも、知れませんね。ですが、考えてみて下さい。「今の時代には、二つのタイプの本」が、この世には、存在します。「一つ目は、昔ながらのタイプの本、つまり、紙版の本です。二つ目は、比較的新しくて、今、流行っている、電子書籍版の本です。」「本好きの私にとって、電子書籍が、どんな風に映っているか」というと、「電子書籍は、紙タイプの本と違い、持ち運びには、とても便利な様に見えます。電子書籍なら、本棚はいらないし、本棚の中に戻すと言う、手間も省ける。」でも、「その一方で、本好きの私には、使いにくい点も、」見えてきました。「本好きの私にとって、一番、使いにくい!と、感じる点」は、電子書籍って言うだけあって、「電子機械を通して使わないと、どんなに優秀な電子書籍でも、電子書籍であるがゆえに、電子機械を使って居無い間は、その本を読めない!」って、事です。つまり、「電子機械を通していない間の電子書籍は、この世には、その本が自体が、存在していない!」って、事に成ります。「今回のテーマである、私が本を読む時と言う、テーマの中で、私が、一番、お伝えしたかったのが、紙タイプの本と、電子書籍の違いについて」です。「私にとって、電子書籍は、今の私には、一番向かないタイプの本」なのです。何故なら、「私が本を読みたくなる時は、パソコン作業や、携帯電話を使って、疲れたり、機械作業に飽きた時に、本を読みたくなるから」です。それなのに、「電子書籍では、電子機械を通さないと、どんなに優秀な内容の本でも、本が読めない!って、事に成ります」よね。では、「それに対して、昔ながらの、紙のタイプの本」は、どうでしょうか?「昔ながらの、紙タイプの本は、電子書籍と違い、持ち運びには、とても不便な様に見えます。本棚と言う、専用の場所が必要に成ってしまうし、本棚に、本を戻すと言う、作業も必要に成ってしまう。おまけに、分厚いタイプの本に成ると、その本一冊だけで、とても重い!でも、一方で、私の様に、機械作業につかれた時や、機械作業に飽きた時に、読みたくなるタイプの本は、確実に、昔ながらの、紙タイプの本の方が、圧倒的にいいです」よね。昔ながらのタイプの,紙製の書籍なら、紙製の本ですから、電子書籍の様に、必ず、電源を確保したうえでの読書!な~んて、馬鹿な事態も、起こらずに済みます。それに、私は、自分がスクーターの免許を取る為の勉強をした際に感じた事ですけど、私自身としては、やはり、機械(パソコン)を通しての勉強より、紙タイプの本による、勉強の仕方の方が、私自身には、向いているし、外出先でも勉強しやすいし、勉強の内容に対して、とても、集中しやすい!と言う、体験が出来ました。ですから、「私は、これからも、紙タイプの本を中心に、お勉強をしようと思いますが、だからといって、電子書籍タイプの本を、この世からなくせ!と、言っているわけでは有りません。」ただ、「電子書籍タイプの本しか、使えない勉強法は、私には、合わない!と、言っているだけの事」です。この世には、色々なタイプの人間や、色々な国々の方々が、存在します。ですから、「人それぞれ、お勉強しやすいタイプの、勉強法が、違ってしまうのは、ある意味、仕方ない事」だと、思います。だから私は、電子書籍タイプの本しか、扱っていない方々に、私は、言いたいことがあります。それは、今まで通りの、紙タイプの本も、作ってほしい!と、言う事です。「電子書籍は電子書籍で、良いところが有りますが、私には、紙タイプの本の方が、その本の中身に、集中して、勉強しやすい!って事」です。「ただ今、試験勉強の真っ最中の子供を持つ親の方々なら、今の私が、何を言いたいのか、分かりますよね。」ご自分の子供が、試験勉強に集中しなければならない時期や時間なのに、スマートフォンやタブレットで、漫画の電子書籍に、夢中になっている姿を、思い浮かべて見て下さい。どう考えても、試験勉強に集中できる環境とは、言い難いですよね。それに対し、昔ながらの、紙タイプの本は、どうでしょうか?昔ながらの紙タイプの本は、電子書籍と違い、電子機械を通さずに、本が読めます。ですので、スマートフォンや、タブレットで、漫画の電子書籍を読んでいる時とは違い、まず、本のページを閉じて、本棚に本を戻し、改めて、紙タイプの教科書に戻る・・・。これって、面倒な様に感じますけど、本を読んでいる時の方々にとっては、今まで読んでいた漫画の内容から、一旦、離れて、ご自分が本来、勉強をしなければならない内容に、改めて集中させる!と言った、いわゆる、頭の切り替えが、可能な時間帯です。電子書籍と、紙タイプの本、どちらが、只今、試験勉強真っ最中の子供にとって、真面目に、試験勉強に集中できるタイプの、試験勉強的環境だと、思いますか?私としては、紙タイプの書籍の方が、試験勉強をする方々にとっては、とても、集中しやすい試験勉強的環境だと、私は、思います。だから私は、紙タイプの本を、この世から無くしてほしくないのです。試験勉強をするときは、出来るだけ、電子機械を使わずに済む方法で、勉強できるようにするのが、一番いい方法で、一番、試験勉強に集中しやすい環境だと、私は、考えます。大人の私でも、機械(パソコン)を使った勉強法では、勉強に集中できない時が、時々、存在したのです。もし、これが、ただ今、試験勉強真っ最中の子供たちだったら、どうなると、思いますか?試験勉強に集中しなければ成らない子供たちの年齢が幼ければ幼いほど、自制心が効かなくなる!と、思いませんか?私は、子供たちへ教える、一番良い、真の勉強法は、勉強内容に集中する必要が有る科目ほど、紙の本で勉強させるのが、一番良い環境だと、私自身は、思っています。これは、「昔ながらの伝統的な方法にこだわる者としての意見ではなく、私自身が、自分自身の体験談によって、導き出された答えなのだ!と、言う事を、認識してください。」「それさえ、認識して下されば、誰が、どんな方法で勉強しようとも、ご自分自身の好きな様になさって下さい!」と、私は、思っています。私の長い文章のブログに、最後まで付き合って下さって、本当に、ありがとうございます。私のブログに、少しでも興味を持って下さった方々、本当に、ありがとうございます。そして、私の長い文章のブログを、毎回、読んで下さっている方々、いつも、最後までお付き合いいただき、本当に、ありがとうございます。また、私のブログを最後までお読みいただける様、努力いたしますね♡         えりりん

私のブログ歴

皆様、こんにちは。えりりんです。今回のテーマは、「私のブログ歴」です。「私のブログ歴は、2020年11月24日現在、1年8か月15日です。」実は私、2019年3月9日に「初めて、自分のブログを作り始めてからというもの、2020年11月21日まで、自分のブログ歴を数えていません」でした。いや、どっちかっていうと、「私が自分のブログ作りに夢中になりすぎた為に、自分のブログ歴を数える精神的余裕さえ、全然、無かった!!」と、言う事。私って、何でもそうだけど、「私が一度、何かにはまって、私が、完全にその何かに夢中に成ってしまう」と、「その時点での私」は、「その時点での私が夢中に成ってしまった事以外、完全に、私の頭の中から、完全に、忘れてしまう」事が有ります。つまり、その時点での私が夢中に成っている事以外は、何も見えていないと言う精神的な状態に成ってしまっています。つまり、猪突猛進‼(ちょとつもうしん)って、事ですね。全く、「いのしし年生まれの私らしい、現象」ですね。ですが、だからと言って、私に、全然、冷静さが無いわけでは有りません。当然ですが。私は「普段から、色々な事を冷静に考え過ぎてしまう」ところが有ります。その為、私の事を良く知る人物たちからは、「絵里ちゃん、もっと、色々な面で、行動的に成ったら?」と、言われたことさえ、有ります。そして、「色々な事を冷静に考える事は大切だけど、もっと、色々な面で、積極的に行動した方がいいよ。」と、言われた事も、有ります。だから、今の私は、「今の自分にとって、可能な範囲内で、積極的に行動する様に、気を付けている」のです。ですが、だからと言って、「私の体力・私のスタミナ・私の健康状態、私の経済的状況、私自身の気力、私自身のやる気の度合い、私が興味を持っている事をすっ飛ばして、行動する事は出来ません。」「行動するからには、交通費と言う名のお金が必要に成ります。行動するからには、その時点での私の体力やスタミナ、健康・やる気も無くては、行動出来ません。当然、何かをするからには、それを見たり聞いたりする為に必要な、専用に使える時間も、必要」です。もちろん、「会場へ行く必要が有る場合には、会場へ行くための費用と、交通手段も、知らなければ、お話に成りません。」「全くの見ず知らずの場所に、自分一人で行く場合、まずは、行くための方法と、必要経費の把握、そして、誰が何を教えてくれるのか?の把握は、最低限、把握しておかなければ、実行不可能な事」です。その為、私は、「その時点での私に必要な事に関する情報は、私は、何でも、積極的に、情報収集に努めます。」「今の私の情報収集方法」は、「基本的に、パソコンで情報収集をしていますが、パソコンで気に成る事を調べることも有りますし、出先で貰って来た紙の広告、私と直接会話をした人からの話の内容、私の周りで飛び交っている噂話の信憑性、などを基に、情報収集をしています。」「私にとって、パソコンやテレビに出てくる広告の情報」は、「その時点での私には、単なる、噂話と、同等の価値」しか、有りません。ですが、その中でも、「その時点での私にとっての、知らない情報が混ざっていると、へぇー、今は、こんな情報が出回っているんだ~」と、認識します。ですが、「私にとって広告は、あくまでも、ただの噂話と同等の価値ですので、その情報を知ったからと言って、その情報を、鵜呑みにすることは有りません。」むしろ、「私の場合、広告は広告としてしか、認識しません。自分たちの身の回りにあふれている、ありとあらゆる噂話が存在する様に・・・。」「ご自分の身の回りに存在する噂話に、毎回、私、これ欲しい‼と、言う気になれますか?」私の場合は、なれません。「どんなに、良さそうな情報でも、私は必ず、吟味に吟味を重ねてから、行動するか?」を、考えます。「今の私に必要な情報かどうか、今迄の私が行ったことのある場所の近くかどうか、私が使ったことのある、公共交通機関が利用できるかどうか、行く為に必要な交通費はいくら必要か、その時点での私の体力とスタミナと健康状態で、往復が可能かどうか?などを全て総合した結果で、私は、行動するかどうかを決めています。」「私は昔から病気に成りやすいうえ、疲れやすいのです。ですが、昔の私と比べると、今の私の方が、圧倒的に体力的にも上だし、今の私の方が、積極的に行動しやすい私に成ってはいますが、他の方々から比べると、私は、まだまだ、肉体的に無理が出来ません。」その為、「その時点での私が肉体的にキツイ!と、感じる様な現象が起こると、私の身体は、体が重くなって、ペースダウンしてしまいます。それでも、私自身が無理をしてしまうと、病気に成るか、意識が遠のきそうになり、体が動かなく成ってしまいます。」だから私は、「今の私に行動可能な範囲かどうかを、吟味する必要が有る」のです。だから、私は、「私の目の前で仕事をしている、他の海の家のメンバーに、無理はするなと、最近、良く言う様に成ってきています。」「私は、無理をすると、いつも、ロクなことが無いから、仕事を積極的にするのはいいことだけど、無理だけはするな」と、海の家の他のメンバーに、言ったことが有ります。私の「海の家での仕事は、肉体労働が基本なので、当然、海の家でのお仕事をすれば、疲れてしまう時間帯が来ます。そろそろ、肉体的に疲れがたまり始める時間帯が近づいたな・・・と、感じると、自然と、そう言ってしまいたく成ってしまいます。もちろん、言われた本人全員が、好意的に受け止めるとは、限りません」が・・・。ですが、「言われた本人が嫌がっている素振りが無ければ、私は、私が言いたくなった言葉を、これからも、誰かに伝え続ける」事でしょう。そして、「私は、このブログを続ける限り、自分のブログを使って、これからも、私が誰かに伝えたい事を、これからも、書き続けるでしょう。そして、私は、自分のフェイスブックも、自分のブログも、自分のホームページも持っているので、私は必ず、何らかの形で、私は、自分が誰かに伝えたいことを、誰かに、伝え続ける」でしょう・・・。私の長い文章のブログを最後まで付き合って下さって、本当に、ありがとうございます。私のブログに少しでも興味を持って下さった方々、本当に、ありがとうございます。そして、私の長い文章のブログを毎回、読んで下さっている方々、いつも、最後までお付き合いいただき、本当に、ありがとうございます。また、私のブログを最後までお読みいただける様、努力いたしますね♡                            えりりん

山口県での私の仕事

皆様、こんにちは♡えりりんです。今回は、私のお仕事について、書かせていただこうと思います。私が山口県下関市内で働いている場所は、「鳴き砂ビーチうしろはまと言う名前の海の家」です。私はここで、2017年から、海の家のスタッフの一人として、働いています。私の実家は埼玉県飯能市なので、私が静岡県下田市に行く迄は、全然、海の家どころか、海そのものとは、全く縁が有りませんでした。私が初めて海に行った日の事は、全然、覚えていませんが、どうやら、静岡県下田市の海のどこかの様です。「山口県入りする直前までの私」にとっての「海&海の家」は、「お客として使う事は有りました」が、「私が山口県入りする迄」は、「私が海の家で、海の家のスタッフの一人として働く事に成る」なんて、「全くの予想外の事」でした。何故なら、「私の血縁には、直接海が有る県生まれの方々は存在しない」からです。だから私は、「子供の頃、自分の家の窓から、海が見える場所に住みたい!」と、そう、思って居た事が有ります。何故なら、私は、私が成人して、初めて静岡県下田市に行く事に成るまで、私が海に行くには、自分が住んでいる家から、車を使っても、日をまたいでの移動しか、出来ていませんでした。何故なら、私の血縁関係者は、直接、海が有る県生まれの方々は、存在しないからです。「私が死ぬまでずっと住み続けたい!と、本気で思っていた静岡県下田市でさえ、そうです。」「私にとって静岡県下田市」は、「私の血縁関係者が住んでいる場所かどうか」だけで言えば、「静岡県下田市」は、「山口県下関市内に居る、今の私と同じ、私の血縁関係者が全くいない場所の一つ」です。でも私は、「私がたった一人で静岡県下田市に行く事にした理由」は、「私が生きて21世紀の世を生きる事が出来る様に成ったから」です。「当時の私」にとって、「当時の静岡県下田市行き」は、「2017年6月15日に、私が山口県入りした時と同じく、私の血縁縁者は、誰一人として存在していません」でした。ただ、「元家庭教師をしてくださっていた男性が、静岡県下田市生まれ」でした。その為、私の妹が、私より先に、静岡県下田市に行って居たので、私と妹が、結果的に長年、下田市で住むことに成った、そもそもの根本原因です。「私の妹」にとっては、「元家庭教師の先生は、元々、妹が通っていた学習塾のトップの方だった」ので、「結果的に、その男性に、私の妹は、たくさん、色々な事を教えて頂きました。」ですが、ある時、「その男性のご両親が全員亡くなってしまい、相続問題が発生し、結果的に、学習塾を経営していたその男性は、ご自分が経営していた幾つかの学習塾を、時間をかけて一つづつ確実に、全ての学習塾を終了」なさいました。そして、「その頃の私の妹」は、「その男性の学習塾に行けないと、まともに勉強できないレベルの成績だった」為、「私の妹が通っていた場所の学習塾が閉鎖されると分かった時、何とかして、妹にもう少しお勉強を教えて欲しい!と、私と、私の両親が頼んだ結果、家庭教師としてお勉強を見て下さる事に成り、当時の妹は、無事に高校を卒業」しました。その為、「私」は、よく、「その方を先生!」と、呼んでいました。そして、その結果、「元家庭教師の男性」は、「妹が高校を卒業直後から、妹を下田市に来る様誘って下さった」ので、「妹」は、「結果的に、高校卒業直後から、静岡県下田市に行く事に成りました。」「私の場合」は、「私が静岡県下田市に行く一年くらい前に、当時の私の妹が先に静岡県下田市に行って居た」ので、当時の私は、「当時の妹があまりにもお料理が出来なさ過ぎた為、当時の私は、その元家庭教師の男性の誘いに乗って、静岡県下田市に行く決意」をしました。ですから、「静岡県下田市に行ったばかりの頃(正確には先に静岡県下田市に行った妹以外では)の私」も、「2017年6月15日に山口県入りした直後の私」も、「私一人で私の血縁関係者が全く居ない場所での生活を余儀無くされました。「静岡県下田市に行ったばかりの頃の私」も、2017年6月15日に私が山口県入りしたばかりの私も、当時の私自身は、不安で不安で堪らなかったです。ですが、静岡県下田市に行った頃の私は、最初から最後まで自分の妹と一緒に何でも、外仕事は全員で力を合わせてやって来ましたが、結果的に長年住んだ静岡県下田市を出る事に成ってしまいました。私が静岡県下田市に居た頃は、自分の妹以外の血縁関係者が全く居ないと言う現状だけでしたが、2017年6月15日に私が山口県入りした時は、その妹すらも、私のそばに居ない状態から私の山口県下関市内での生活は始まりました。私が山口県入りした直後の私にとっては、自分の妹が私のそばに居ない現状など、私の妹が義務教育時代に学校のイベント関係以外では、義務教育時代の妹が当時の友人の家にお泊りしたかどうか?位のものです。結果的には、三年五ヶ月間の間は、私が一人だけで自分の血縁関係者が全く存在していない場所での生活を余儀無くされました。ですが私は、何とか、身内が一人も居ない場所で、生活しています。理由は、母親からの仕送り以外では、私が山口県入りした年の7月から働き始めた海の家でのお仕事が山口県入りした後の私の、唯一の収入源だからです。ですが、私は、海の家でのお仕事が気に入っているので、海の家の収入が全く貰えない時期でも、私は、積極的に海の家でのお仕事に行っています。ですが、私の体が海の家でのお仕事をするだけの体力が残っていない時は、必要に応じて休みを貰っています。それ以外では、私がどうしても、参加したい!と思えるイベントが有る時は、許可を得た上で、参加しています。ですが、考えてみれば、私が行きたいイベント参加の為のお休みの数より、私の身体の体調不良による休みの数と確率の方が、圧倒的に多いです。私がお休みをして居る間は、お給料は貰えないんだから、少しでも早く、体調不良を治さないと、駄目ですよね・・・。ですが、私が海の家でお仕事をして、お給料が貰えるのは、海の家が営業期間中の7月と8月の2か月間だけです。今は、もう11月なので、私がいくら海の家でのお仕事を頑張っても、直接、私のお給料には結び付きません。おかげで、私の生活資金は、ほとんど、親からの仕送りに頼っている現状です。もちろん、海の家での収入は、今年も、キチンと貰いましたが、今年は、去年と違って、私の身体の体調不良の期間が多かったため、私は、今年のお給料は、ほとんど、当てにしていませんでした。ですが、運が良かったのと、重見さんのおかげで、私は、今年のお給料を、10万円貰いました。今年の私の働きぶりでは、私が初めて働き始めた2017年の頃の私より、今年の私は、体調不良の期間が多すぎたため、今年の私のお給料は、私が初めて働いた2017年7月と8月に働いた時と同じ金額の3万円か、悪ければ、1万円、最悪の場合、今年のお給料は0円だと、私自身は、そう、予想していました。ですが、運が良かったのと、重見さんのお陰で、私は、今年の私の働きが悪かったにも関わらず、10万円も貰いました。重見さんに理由を尋ねてみると、私に、一日も早く、自分のスクーターを購入して欲しいからだそうです。でも、私は、私がスクーターの学科試験をしたのが、今年の9月で、実際に運転免許を貰えたのが、今年の10月2日だったので、私はまだ、自分のスクーターを手に入れてはいません。重見さんのお陰で、10万円のお給料を貰えた私ですが、スクーターは、新車だと、安くても、16万円代位からが普通なので、今の私のお給料では、中古のスクーターしか買えない計算に成ります。私が今住んでいる川棚の家には、私が来る前から存在していたスクーターが有りますが、そのスクーターは、当然、私のものではなく、今は、重見さんのスクーターだそうです。もちろん、私が住んでいる川棚の家に有るスクーターなので、時々、私も使わせてもらう事は有りますが、当然、私のスクーターではないので、誰も使って居ない時に、許可を貰って、スクーターを使わせて貰っています。ですが、私は、例え、中古車でも、私は、自分のスクーターが欲しいのです。それなら、個人でもらえた10万円の給付金で買えば良かったじゃないか!と、言う意見が出て来そうですね。ですが、私が今年、個人でもらえた10万円の給付金が私の口座に入った時は、私が親からの仕送りの4万円のほとんどを使い果たしていました。お陰で、私がお金を下ろした時の銀行口座の金額は、すでに、数千円代の金額だったので、私の全財産のほとんどが、使い果たした状態でした。その為、私の分の10万円の給付金が私の口座に振り込まれた時は、命拾いをした感じがしました。その頃にはまだ、私が海の家で働いたお給料はまだ、貰えていなかったからです。今は私の手元には、まだお給料が残ってはいますが、私はいつまでも、10万円を使わない状態で持っているわけにはいきません。早く、私専用のスクーターが欲しいです。でも、今の私の所持金額では、例え、中古車でも、一体いつに成ったら、買えるのやら・・・。「新車は、お店に、いつでも並んでいます」が、「中古車は、何時でもあるとは限らない」そうなので・・・。何故、私が、今年一年分のお給料を使って、自分のスクーターを買おうとしているかと言うと、もし、私自身に、自分のスクーターが有れば、私はもっと自由に、自分の生きたいところへ行く事が出来る様に成るからです。自分のスクーターが有れば、誰かが川棚の家のスクーターを使って居たとしても、私は、自分のスクーターで、何時でも好きな時に、私が出かけたいタイミングでスクーターを使う事が出来る様に成るため、私自身の行動範囲がもっと、広がります。もし、私のスクーターが手に入ったら、私は、そのスクーターを使って、もっと、色々な場所へ出かけてみたいな・・・。私の長い文章のブログに、最後まで付き合って下さって、本当に、ありがとうございます。私のブログに、少しでも興味を持って下さった方々、本当に、ありがとうございます。そして、私の長い文章のブログを毎回、読んでくださっている方々、いつも、最後までお付き合いいただき、本当に、ありがとうございます。
また、私のブログを最後までお読みいただけるよう、努力いたしますね♡                          えりりん

私が山口県入りして三年一ヶ月

皆様、おはようございます。私、今年の6月15日で、2017年6月15日に、初めて山口県入りしてから、2020年6月15日で三年目の夏を迎えました。ですが現在(いま)は、2020年7月20日なので、私が初めて山口県入りしてからこの山口県下関市内で過ごした期間は、三年一ヶ月と言う事になります。私は正直、三年一ヶ月と言う期間を、この山口県内で迎える事が出来るとは、正直、全然思っていませんでした。何故なら、私は本来、私の事を良く知った人たちや、私の肉親・身内の人達、私が心を許した、友人・知人との交流がとても大好きで、本来の私なら、私一人だけで、私が山口県入りする事など、有りえない事でした。その為、本当に、私が一人で山口県入りした時は、私の事を良く知っている人たちは、とても驚きました。本来なら、そんな状態の私ですから、私がこの山口県内で、三年一ヶ月を迎える事など、私自身をはじめ、私の事を良く知っている者達は、とても驚き、信じられない!と、言うと思います。でも、それはそれで、当然のことだと、私は思います。何故なら、私自身が信じられないからです。でも私は、私が山口県入りをするにあたり、私は、ある目的をもって、山口県入りをする事にしました。「私がこの山口県内に居るのは、長くても、五年間。この事実さえ、私が山口県入りする為の、準備期間中に決めた目的の一つ」です。私は、「五年目の夏を迎えるまでの間、私は、私が山口県入りをする為の準備期間中に決めた、有る目的を少しずつ果たしながら、私がずっと、この山口県内で生きて行けるかどうかを判断」しようと、思っています。私は、五年目の夏が来るまでの間、「私が安心して、山口県内で生きて行けるかどうかの、判断材料集めを、ひたすら実行して行きたい」と思います。そして、そのうえで、「私は、この山口県内で私自身が、安心して生きて行けるかどうかを、五年後の私が判断」します。そして、もし、五年後の私が、「この山口県内で安心して生きていける!」と、判断したなら、私はこの「山口県内でずっと生きる事を選ぶ」でしょう。ですが、もし、五年後の私が、「この山口県下関市内では安心して生きていけない!」と、判断した時は、私は、「今、住んでいるこの家を出て、実家に戻るか、それとも、同じ山口県内の別の場所に自分の家をもつか、さもなければ、山口県を完全に出て、まったく別の所に私自身の家をもつかの、三つの選択肢のうち、どれか一つを選ぶ事になる」でしょう。現時点での私がもし、どれか一つを選ぶのなら、「実家に戻るが、一番、現実的」かも知れません。私は今、山口県内で住んでいる場所が気に入ってはいますが、「現時点では、必ずしも、私が安心して生きていける状況とは言い難いから」です。でも私は、せっかく、「私の事を気に入って下さる方も、少しは出来た」ので、現時点では断定するつもりは有りません。何より、「私がこの山口県内で、ずっと生き続けるかどうかの判断材料は、今の私が集めますが、その判断材料を基に、私の人生設計に決定を下すのは、五年後の私に任せて有るから」です。その為、「現在(いま)の私がどんなに不愉快な体験をしても、すぐには、私の判断材料にはしませんが、五年後の私の判断材料になる為、現在(いま)=(2020年7月20日現在)までの私に、不愉快な体験をさせると、五年後の私の決定事項に、直接、影響します。そして、その生き方は、五年後の私が、今の私が集めた判断材料を基に、山口県内で生きて行けるかどうかを判断するまでずっと続きます。これは脅しではなく、「すでに、私自身がそう決めて生きていると言う、事実」です。だから、気を付けてほしいのです。私と直接、接触をする可能性が有る人の場合は、特に・・・。これは、「私が静岡県下田市に行ったばかりの頃に、私自身が下田市でずっと生きていく!と決めた時に必要とした年月」です。私が過去に、「静岡県下田市でずっと生きていくかどうかの選択肢に迫られた時、私は、五年間をかけて、私が静岡県下田市でずっと生きて行くかどうか」を、決めました。「何故、私が五年間もかけて、静岡県下田市で生きて行く事を決めたかと言うと、当時の私は、下田市の良さも悪い所も、全てが、まったく未知の状態」でした。その為私は、「下田市ならではの良さと欠点を見極める為に、五年の年月を要した」のです。そして今、「私は新たな場所で、私自身がずっと安心して生きて行けるかどうかを判断する必要性が有る場所」に、居ます。その為、私は、「私が山口県入りを果たしたその時から、私がずっと安心して生きて行ける場所かどうかを、判断する為の、判断材料集め」を、しています。この方法は、「私自身が新しい場所で生きて行く事を余儀なくされるたび、私自身が安心して生きて行けるかどうかを判断するために、毎回、実行する事になる方法」だと、私は思います。だからどうか、「余計な事で、私の心を乱さないで下さい。私自身は、他の方々が思っているほど、子供では有りません。私の見た目や、私の子供っぽい口調に騙されないで下さい。それは、私の作戦です」から・・・。私は、私一人だけで、この山口県内で生きているのです。私自身が、「一体、誰を信用して良いのかどうかを判断する為」に・・・。私の長い文章のブログに、最後まで付き合って下さって、本当に、ありがとうございます。
私のブログに、少しでも興味を持って下さった方々、本当に、ありがとうございます。
そして、私の長い文章のブログを毎回、読んでくださっている方々、いつも、最後までお付き合いいただき、本当に、ありがとうございます。

また、私のブログを最後までお読みいただけるよう、努力いたしますね♡                          えりりん

私がブログを書けない時

皆様、こんにちは。今日は、「私がブログを書けない状態の時」の事を、お話しようと思います。私は、「基本的に、自分から進んで始めた事」は、たいていの場合、「どんなに時間がかかっても、誰かに反対されても、誰かに邪魔されても、基本的に、私は何でも最後までやり通す」様にしています。ですが、どんな人間でも、「一度も、何かの障害に合わずに、何かを最後までやり遂げる事ができた人は、いない」と思います。私の場合も、そうです。今回のタイトルは、「私がブログを書けない時」と言う「タイトル」ですので、「私がブログを書けない条件の時、限定」で、書きたいと思います。私が「自分から進んで始めた事の一つ」でもある、「えりりんのブログ」は、私がいつか、「自分のパソコンを手に入れられた時に、自分で自分専用のブログを作ってみたい!」と思い、「念願叶って、2017年に自分専用のパソコンを手に入れて」から、まずは、「自分専用のフェイスブック」を、薫さんに作ってもらいました。(本当は、「自力で、自分のフェイスブックを作ってみたかった」です。)そして、次に、「非公開グループの一つ」である、「智閥マスターズに参加」させて貰いました。その次に、「自力でパソコン版のアメーバに参加」し、その「アメーバ」の中から、「Ameba  Ownd」に、「自力で出会い」、「私は、自力で、「自分のブログ」と、「自分のホームページ」を、「Ameba  Owndの指示に従って、自分で、自分のブログとホームページを作りました。」そうして出来上がったのが、「えりりんのブログ」であり、「えりりんのホームページ」です。誰でもそうだとは思うのですが、「私が自分のブログを更新出来無い時」は、「私がパソコンを使える環境下に無い時」です。私の場合、「一番多いパソコンを使える環境下に無い時の最大要因は、私自身が自分の部屋に居ない事」が、「最大要因」です。つまり、「家の中に居ても、私自身がパソコンを自分の部屋に置いたまま、パソコン作業以外の事をしている」か、そもそもの話、「自分の部屋にパソコンを置いたまま、外出している時」が、「一番多い根本原因」です。二番目に多い原因が、そもそもの話、「パソコンのスイッチ自体を入れ忘れている」と言う事も、「かなりの確率で根本原因に有ったり」します。(私が山口県入りしてからは、夜、寝る時は、自分のパソコンで、ヒーリングミュージックの動画をかけながら寝る事が、かなりの確率で有る事が多いからです。)三番目に多い原因は、「私が気になる動画を見ているだけで、時間が無くなってしまう」と言う事も有ります。(私が実家も含めた、家に居るときに、一番多い理由です。)四番目に多い原因は、「私のフェイスブックの更新だけで、手一杯な事も」有ります。(海の家の仕事が有るときも含めた、外出時間が迫っている時に一番多い理由です。)五番目に多い原因は、「私のフェイスブックを見る時間さえ、取れない!」と言う事も、かなりの確率で有ります。(海の家の仕事に行く時に、一番多い理由です。)六番目に多い原因は、「私自身のお勉強や調べ物の方に、時間を取られてしまっている!」と言う事も、かなりの確率で有ります。(海の家のお仕事が、お休みの時や、海の家のお仕事から帰って来た時に、一番多い理由です。)七番目に多い原因は、「私自身の体調不良が原因」です。(私は、子供の頃から病気がちだった上、現在の私は、自分のドジによる怪我の後遺症に悩まされています。おまけに、月経が始まると、毎月、大なり小なり、体調不良に成ってしまいます。)八番目に多い原因は、「パソコン自体の不調が原因」です。九番目に多い原因は、「インターネットの電波が一時的に、未接続状態に成ってしまっている時」です。(「風が強い日」や、「嵐の時に一番多い理由だけだと思いがちです」が、「私の場合は、風が全然無い日でも、結構多い理由」です。)十番目に多い原因は、パソコンでゲームをしている時です。私は、パソコンを使った作業に関わらず、「私の場合は、どんな方法であれ、私は自力で文章を書く事自体がとても大好きなの」で、「私がパソコンを使っていない時の文章化は、紙に書いて」います。「外出先」では、「自分の携帯電話のメモ機能を使って、文章化している事も有ります。」そのため、「私が文章を書いているからと言って、毎回、必ず、私が自分のパソコンを使っている訳では有りません。」「私にとって、自分の心の中の思いを文章化できる方法であれば、パソコンのような機械を使おうが、メモ帳のような紙製品を使おうが、どちらでも私自身は、構わない」のです。何故なら、「私の場合は、両方とも、使っている」から・・・。それに、「機械だけでなければ駄目!だとか、紙製品でなければ絶対駄目!だとか言う考え方は、ご自分が一番使いやすい方法を探すうえでも、ご自分にとっての選択肢の幅を狭くするだけで、私的(わたしてき)には、何のメリットも無い!」と、私は思います。「私が自分の思いを文章化する時に、一番、重視している」のは、「その時点での私が文章化したい!と、思った時点での私の現状に、機械製品がそばにあるか、紙製品がその時点での私のそばにあるかどうかだけが、その時点での私の判断基準」です。そのため、私は、「20世紀生まれであるにも関わらず、私は、機械と紙製品の両方を使う」のです。私たちの世代の人間は、男女ともに、流行に敏感な人間でなければ、あるいは、機械の便利さを知っている人間でなければ、自分自ら積極的に機械を使おうとはしない人達も、珍しく有りません。中には、「機械の存在自体を嫌っている方々」も、「いる」と思います。「私自身も、中学生時代までは、自力で機械を使った事が無かった」上、「私が中学生時代までは、私自身も機械自体が大嫌い!でした」ので、その気持ちは、「嫌!と言うほど、良く分かります。」ですが、考えて欲しいのです。「ご自分の選択肢の幅が、狭いままで良い」のか、それとも、「ご自分の選択肢の幅が広い方が良い」のか・・・。「ご自分の選択肢の幅が狭い」と言う事は、「ご自分が何らかの理由で、良い事を世の中に広めたい時」に、「ご自分だけで出来る何かを選ぶ時に、ご自分が伝えれる方法の数が、少ない!と言う事」です。「ご自分の選択肢の幅が広い」と言う事は、「ご自分が何らかの理由で、良い事を世の中に広めたい時」に、「ご自分だけで出来る何かを選ぶ時に、ご自分が伝えれる方法の数が多い!と言う事」です。「一体、どちらが、ご自分自身にとって、より良い結果を生み出す大基(おおもと)に、成る」でしょうか?「私は今まで、この手の類(たぐい)の事実」によって、どれだけ、「今迄の私の人間関係を含めた人生のトラブルが、存在したか、分かりません。」何故なら、「私自身の人間関係の中で、散々、この手の類(たぐい)のトラブルに、私自身の体験談は、数え切れない程のトラブルを経験し続けて来た」からです。だから私は、「私のブログを読んで下さっている方々にお伝えしたい」のです。「ご自分の選択肢の幅が狭い方がいいですか?」それとも、「ご自分の選択肢の幅が広い方がいいですか?」と・・・。「どちらを選んでも、私のブログを読んで下さっている方々の自由です」が、「より良い自分になりたいのなら、どちらを選べば、より良い自分になれるかは、まともな考え方と、まともな判断を下せる方々なら、答えは、明白です」よね♡「私のブログを読んで下さっている方々」の中には、「このブログを読んで下さっている方々の癇に障る方々」も、「中には、いるかも知れません」ね。ですが、「覚えておいて欲しいのは、これは、私自身の体験談と、私自身の考え方を伝えているだけにすぎない!って事」です。「私のブログを毎回、読んで下さる方々には、是非とも、覚えておいて欲しい事ですので、覚えておいて下さい」ね♡私の長い文章のブログに、最後まで付き合って下さって、本当に、ありがとうございます。
私のブログに、少しでも興味を持って下さった方々、本当に、ありがとうございます。
そして、私の長い文章のブログを毎回、読んでくださっている方々、いつも、最後までお付き合いいただき、本当に、ありがとうございます。

また、私のブログを最後までお読みいただけるよう、努力いたしますね♡

                         えりりん

私の年末年始

皆様、あけましておめでとうございます💓私の年末年始は、いつもの様に、家族だけで過ごす事となりました。でも私は、「自分に好きな人や、ずっと、仲良くしたい友人知人、ずっと、一緒に仕事をしていたい仕事仲間などが、新しい場所で出来て来ると、その人達と一緒に、仲良く新年を迎えたいな~💓」と、思ってしまう時がやって来ます。私は、実家の在る埼玉県飯能市内で、今年の年末年始を過ごしましたが、私はやっぱり、「私自身の人生の中で、自分の好きな人が私の傍に居てくれないと、私はやっぱり、私の精神状態に、悪影響を及ぼしてしまう事が多い」様です。私にとって、「私の好きな人の存在は、私の心の支えそのものであり、私の生きるための希望そのものであり、私の活力の源でもあり、私の好きな人自身が望むのなら、私の好きな人の心の支えとなって、その人の傍に居たい!私の好きな人の心が、何かのせいで疲れているのなら、私に可能な範囲内で、その人の心を癒してあげたい!私の好きな人が、私と一緒に居る事で、余計なトラブルになったり、余計な負担になるのなら、私の命と引き換えにしてでも、私の好きな人の心が傷つかなくて済む様に、守ってあげたい!」私は、「私に、好きな人が現れると、私はいつも、そう思ってしまいます。」でも「実際の私は、いつも、基本的に、誰かに守られてばかり・・・。私は、いつも、誰かに支えられてばかり・・・。」私は、その事実に対し、いつも、「誰かが、私の事を守ってくれるのは嬉しい💓でも、私はいつもいつも、誰かに守られてばかり居る・・・と、私の心は認識してしまいます。」その為、「私の心は、守ってくれて嬉しい💓私の事を、守ってくれて有り難う💓と言う気持ちを持つと同時に、私、又、誰かに守って貰ってばかり・・・。とも、認識してしまいます。」その為、私は、いつも、こう考えてしまいます。「私は一体、いつになったら、私が、誰かの事を守ってあげれるのだろう・・・。私は一体、いつになったら、誰かに守られる側から、私が誰かを守れる側になれるのだろう・・・。私が、誰かの事を守れずして、何が大人なの!でも、私は、ただの人間の一人として生まれて来てしまったから、私に出来る事は限られてる!おまけに私は、子供の頃から、病気と怪我にばかり、いつもウンザリする程、好かれてばかり居た・・・。そして私は、私が子供の頃から、私が病気と怪我にばかり、襲われては、いつもいつも、泣いてばかり居た・・・。だから私は、ある時、決めたの。私がもっと大人になって、私自身に好きな人が現れたら、いつか、私が、私の好きな人の事を守る!って・・・。私は女として生まれてしまったから、肉体的な面では、男性にかなわないかも知れないけど、私の好きな人が、私の好きな人の心が傷ついてしまう様な事が有ったなら、私が、その人の心を守ってあげたい!私が、その人の心を癒してあげたい!」私は「ずっと、そう、願い続けながら、48年間、ずっと、生きて来ました。」でも私は、「未だに、誰かに守られる側にしか、成れていない・・・。私は一体、いつになったら、私が、誰かを守る側に成れるのだろう・・・。今の私が、落ち込んだ表情をする事が多かったり、今の私が、悲しそうな表情をしたり、今の私が、何かに悩んだ表情をする事が多い、一番の原因は、私が大人になった今でも、私が、誰かに守られてばかり居るから・・・。私は、私が大人になったら、私自身が誰かを支える事が出来たり、私が、誰かの心を守ったり、私が誰かの心を癒したりする事が出来る様になって初めて、私は、私が生きてて良かった💓私、やっと、まともな大人に成れた!って、実感する事が出来る!」の・・・。それなのに、「私は未だに、親や、大好きな重見さんを始め、私は、私が山口県に行ってからも、私はいつもいつも、誰かに守られてばかり・・・。今の私は、その事実こそが原因で、又、生きる希望を見失ってしまいそう・・・。」私にとって、「誰かに守られてばかり・・・」と、言う現実は、「確かに、感謝をすべき事実では有っても、誰かを守るとか、何かを守る!と言う事が出来出来ていない現実の為、有り難うと言う気持ちと、感謝します!と言う気持ちが、私の心の中に有っても、有り難うと言う気持ちと、感謝します!と言う気持ちを持つのと同時に、私は、何時まで経っても、守られてばかり・・・と言う事実を認識しなければならない現状に成っている為、私が、まともな大人としての人生を生きる為の、希望を見失う原因にも、成っています。」中学生時代までの私が、「私の夢の中で、泣いていた神仏に、笑顔に成ってもらえる様にする為に、意識の時代を呼ぶ!と、決めて、神仏の為に、私が自分で呼んだ意識の時代を、私が支える!と言う決意も、結局は、私が、「誰か」や、「何かを守りたい!」と言う、「欲求を満たす為に、決意した事でも有ります。」でも私、又、分から無くなった・・・。いくら、「神仏に笑顔に成ってもらう為とは言え、私の魂のパートナーが、私と一緒に、私が呼んだ意識の時代を、私と一緒に支えてくれる気は有るのかしら?私が呼んだ意識の時代を、私と一緒に最後まで支え続けてくれる気は有るのかしら?そして、私の魂のパートナーは、私と私の魂のパートナーとの間に生まれた子供達と一緒に、最後まで、私が呼んだ意識の時代を、私と一緒に支え続けてくれる!と言う意志を、ご自分自身の意志で、最後までずっと貫き通してくれる意志があるのかどうか・・・。」だって私は、ただの人間の一人としての私自身の人生を振り返って見た場合、私は子供の頃から病気がちで、私が生きて21世紀の世を生きられるかどうか!さえ、疑問に思い続けながら生きてこざるを得なかった私が、私の肉体的寿命が尽きる日まで、本当に、生き続けられるのかどうか・・・。でも、私は、自分の意志で意識の時代を呼ぶ!と決めてしまった以上、私は、出来るだけ、長生きしなければなりません。でも、正直な話、私は、「私の大好きな人が、この世に存在しない世の中になど、私は興味も無いし、私はそんな世の中で、生き続けるつもりは有りません。」何故なら、それは、「私の生き甲斐が無くなる」から・・・。そして、私にとって、「私の好きな人」と言うのは、「私の心の支えであり、私の希望そのものでもあるから」なのです。そして、「私の魂のパートナーが、私の元に来てくれない限り、私と一緒に、意識の時代を最後まで支え続けてくれる!と、宣言して、実行してくれない限り、私の悩みは、永遠に解決しません。」私が何故、「意識の時代を、私がたとえ、一人でも意識の時代を支えて見せる!と、決心したにも関わらず、何故、自分の魂のパートナーの存在を求めるかと言うと、子供の頃から病気がちだった私一人では、私が死んだ後の意識の時代を支える事が出来なくなる!と、解っているから」です。人間は、「どんなに長生き出来る人でも、200歳迄生きられた人は、この現実の世界では、存在しません。」「単なる思い込み」や、「寿命計算間違い」、「空想世界で、200歳迄生きる!」と言う事は、「可能です」が・・・。そして、「この現実世界で、実際に1000歳迄生きる事が可能に成ったとしても、結局のところ、人間の寿命が、長寿に成っただけの事であって、不死に成れた訳では無い」為、「確実に、自分が死んだ後の事を考えなければ」なりません。その為、私は、どうしても、「自分の魂のパートナーの協力が、必要不可欠になってしまう」のです。何故なら、「自分の魂のパートナーなら、もう一人の私自身でも在る為、私の事を裏切らない!と、解っているから」です。「どんな人間でも、人は嘘をついてしまう事が有ります」が、「どんな嘘つきでも、自分自身に対して、嘘をつく事は出来ません。」「どんな嘘つきな人間でも、自分自身に対して、嘘をつきとおす事は出来ません。」何故なら、「自分で、自分自身に対して噓をつくと、これは嘘だ!と、自分自身で解っている」為、「いつまでも自分の中の罪悪感と向き合わなければならなくなり、いつまでも悶々と、悩み続けなければならなく成るから」です。そして、その結果、「(全ての事に当てはまる訳では有りませんが)、自分に対して嘘をつき通すタイプの人の中から、世の中で事件を起こす人も、自殺をする人も、こう言うタイプの中から、生まれて来る事が有ります。」「自殺をするタイプの人」は、「自分自身に対して、人生最悪の罰を与える事になるだけで済みます」が、問題は、「自分で自分に嘘をつき続けた結果、現実世界で事件を起こすタイプの人が生まれて来た時」です。「自分自身に対して嘘をつき続けた結果、世の中に事件を起こすタイプの人」は、「自分自身に嘘をつき続けた結果、世の中に対して、攻撃的な方法をとるから」です。「こう言うタイプの人には、出来るだけ、関わら無い!のが一番!!」ですが、自分自身が、「自分自身に対して嘘をつき続けた結果、世の中に事件を起こすのタイプの人には一生関わりたくない!」と、思っていても、中には、何故か、「自分自身が一生関わりたくないタイプの人と、関わらざるを得ない状況に陥ってしまう事も有ります。」「そんな時は、可能な範囲内でいいですので、出来る限り、自分自身に対して嘘をつき続けた結果、世の中に事件を起こすタイプの人と、関わらずに済む様に、普段から気を付けて下さい。でなければ、下手すると、このタイプの人に、ご自分の命を狙われてしまう事が有るから」です。「自分自身に対して嘘をつき続けた結果、世の中に事件を起こすタイプの人」は、「人間不信も同時に抱えている為、自分以外の人間と関わりたくない!と顕在意識レベルで思っているので、必要に応じて、いつでもすぐに、その人を攻撃できる様、対応すべきだと、認識している為、チョットした事でも、プッツンして、攻撃的な性格になり、実際に攻撃してしまうと言う現象が、起こることが有ります。」「自分自身に対して嘘をつき続けた結果、世の中に事件を起こすタイプの人」は、「普段から、嘘をつく事自体が大好きで、自分以外の人間を普段から信用せず、そのくせ、何らかの理由で、世の中に対して、ご自分自身が猛反発をしたくなる程、何かについて世の中を監視し、世の中の矛盾を正す為に、ご自分自身が直接攻撃をする事で、世の中の矛盾をこの世から無くそう!と決断し、実際に実行してしまうタイプの人なの」です。「自分自身に対して嘘をつき続けた結果、世の中に事件を起こすタイプの人」は、「時として、何らかの理由で、誰かを抹殺しようとする事が有ります。」「自分自身に対して嘘をつき続けた結果、世の中に事件を起こすタイプの人」が、「何らかの理由で、誰かを抹殺しようと、実際に行動を起こす前に、誰かを殺してやりたくなっている理由を、何らかの方法で、無くす事が出来れば、事件化する事は有りません」が、そうでなければ、「自分自身に対して嘘をつき続けた結果、世の中に事件を起こすタイプの人」は、「ご自分自身が○○を殺してやる!と、思っている人を、あるいは、人達を、ご自分自身の気が済むまで、殺し続けてしまう事も有ると思います。」だから、「自分自身に対して嘘をつき続けた結果、世の中に事件を起こすタイプの人」には、「出来る限り、関わらないのが、一番!!」なのです。私の場合は、「私が子供の頃からとても警戒心が強すぎる程、強かった為、私に対して危害を加えそうなタイプの人と出会う事自体、ほとんど有りませんでした」が、将来的にも、「私に対して危害を加えるタイプの人」に、「永遠に出会わずに済む!」かどうかは、実際問題、解りません。ですから、私は常に、「自分自身が今まで知らなかったタイプの人達と会わなければならない時は、いつも、自分の目の前に居る人達のオーラを読み取った上で、対応する」様にしています。「私が、初めて暮らす場所」や、「私にとって、慣れない場所」、「私にとって、初めて会う人」、「私が普段からあまり、自分の心を許す気に成れていない人が居る場所」では、「私は、いつも、そうして生きて」います。「私にとって、誰かのオーラを読み取ること」は、「その人との付き合い方を、その人自身のオーラが、私に教えてくれるから」です。だから私は、「初めて会う人や、普段からあまり心を許せていない人と接しなければならない時」は、「私は必ず、その人のオーラを読み取る事で、対処する」様にしています。何故なら、「私にとって、誰かのオーラを読み取る事」は、「誰かのオーラを読み取った結果、その時に得られた情報通りに行動しさえすれば、私自身が、不愉快な出来事に直面する事は、まずあり得ないから」です。だから私は、誰かと出会った時、誰かの言動に疑問を感じた時は、いつも必ず、その人のオーラを読み取るように心がけています。ですが、私は、自分の家族や自分の親族たちと一緒に過ごす、平和で、私の事を理解してくださる方々とのコミュニケーションは、私にとって、とっても安心する出来事の一つですので、また、機会があれば、私は、自分の家族や、自分の親族達と一緒に、行動できる何かをしたいです♡2021年の年末年始は、私の家族や私の親族達の他に、私の大好きな人と一緒に、過ごすことの出来る年末年始に成ったら、私、とても嬉しいなぁ・・・。だって、それが、私の子供のころからの夢の一つだったから・・・。私の長い文章のブログに、最後まで付き合って下さって、本当に、ありがとうございます。私のブログに、少しでも興味を持って下さった方々、本当に、ありがとうございます。そして、私の長い文章のブログを毎回、読んでくださっている方々、いつも、最後までお付き合いいただき、本当に、ありがとうございます。また、私のブログを最後までお読みいただけるよう、努力いたしますね♡             えりりん