2020年の冬
皆様、今晩は。えりりんです。
今回のテーマは、「2020年の冬」です。
早いもので、今年も、残すところ、後、一ヶ月を切りました。
皆様は、いかがお過ごしでしょうか?
来月から、新しい年が始まります。
今は、2020年最後の月、12月なのだから、当たり前ですね。
12月は、私の誕生日が有る月です。
そして、私の誕生日が来る前に、12月は、いろんなイベントが有ります。
私自身の人間関係のイベントに属するもの、一般的なイベントに属するものと、色々です。
一般的なイベントの中には、クリスマスイブや、クリスマスが有りますね。
そして、私の誕生日が過ぎると、今度は、大晦日の有る、年末がやって来ます。
今年の私の年末年始の帰宅は、クリスマスイブの日に、帰宅する予定でいました。
しかも、今年は、今までとは違って、飛行機での、年末年始の帰宅をするつもりでいました。
ですが、最近に成って、今年の年末年始の帰宅自体が、出来るどうか、怪しくなって来ました。
理由は、実家に居る母が、今年の私の年末年始の帰宅自体に、異議を申し立てて来たからです。
私は今迄、2017年6月15日に、私が山口県入りしてからというもの、私が実家のある埼玉県に帰宅する時は、いつも必ず、夜行高速バスで、帰宅していました。
ですが、今年は、コロナウイルスの影響なのか、私がいつも乗って帰っていた、夜行高速バスは、今年の年末年始の時期のスケジュールには、高速バスのスケジュールは、存在していませんでした。
ですので、今年の私は、夜行高速バスを使っての帰宅は、出来ません。
仕方ないので、高速バス以外の帰宅方法を、パソコンで検索して調べてみました。
電車系の乗り物を使った帰宅方法、船・カーフェリー、色々、調べてみました。
ですが、どれもこれも、私が今迄行ったことのない方法での、帰宅方法しか、出て来ませんでした。
悩んだ末、私は、実家に居る母と、高校生時代から付き合っている、親友の一人に連絡を取り、現状を訴えました。
すると、母が電話で、「飛行機を使う!と言う、手もあるよ。」と、教えてくれました。
私は、母から教わった通り、借り物のパソコンで調べてみました。
そうすると、「格安航空を使えば、実家の埼玉県飯能市へ帰宅出来る!」と、分かりました。
でも、「飛行機での帰宅方法」は、「今まで使った事の無い方法なので、躊躇しながらも、自分のスケジュールと、飛行機を使った場合の往復方法や、飛行機代を支払ってまで帰るなら、私が飛行機代を支払ってまで、私と一緒に飯能市へ、一緒にきてくれる人が居るかどうか、私が一人で帰るなら、私自身が確実に、実家へ帰れる方法を、調べなくてはなりませんでした。」
「早く申し込んだ方が、格安チケットが確実に取れる事は、分かっていましたが、私自身のスケジュールと、飛行機のチケットのスケジュールとの、調整をして居る間に、母が最初に教えてくれた金額より、少し高めの金額に成ってしまいました。」
でも私は、「結果的に、自分一人で実家に戻る事」に、しました。
「私にとって、年末年始の帰宅の有無は、自分の家族をはじめとした、自分の家族や、親戚一族に会えるかどうかの瀬戸際」なのです。
私は、「2017年6月15日に、私が山口県入りして以来、私がいつも羨ましく思いながら過ごしている 事は、年末年始や、お盆休み等の様な、自分の家族や、親戚一族達に、いつも、当たり前に会えている人達を見る事」です。
「今の私にとって、私が自分の身内との交流が有り、自分の身内達との交流を、当たり前に過ごせる事、そのものが、どれだけ、私自身にとって、とても大切で、とてもありがたい事だったのか」を、改めて、思い知りました。
そして、以前、読んだ、「アンジェリーク」の本の内容のワンシーンを、思い出しました。
私が今回、ここで言っている、「アンジェリーク」とは、私が昔、自分のお小遣いで買って、自分の好きな時にしていた、「アンジェリークと言う名前の、スーパーファミコンのゲームソフトが基に成った本」の事です。
私が「アンジェリークと言う名前の本」を買ったきっかけは、「私がずっと気に入っていたゲームソフトである、アンジェリークと言う名前のゲームソフトが、コミック化された内容の本」だったからです。
私は、ゲームも、アニメも、コミックも、大好きですが、だからと言って、ゲームだけ、アニメだけ、コミックだけを、している訳は、有りません。
当然!!ですが。
私がアンジェリークと言う名前のゲームソフトを気に入った理由は、「私の大好きなラブロマンスのストーリー内容」で有りながら、「自分だけの大陸を育てる事が出来る!」と言う、理由でした。
「私が、本を買う時の基準」は、「すでに、私の以前のブログでお話した通り」ですが、「私がゲームソフトを買う時の基準」も、「私には、存在していますが、その判断基準は、私が本を読む時と言うタイトルの私のブログに書いた通りの判断基準と、大差ありません。」
あえて言えば、「私がゲームソフトを買うかどうか」は、「当時の私がゲームをする時間帯は、夕食を済ませて、後は寝るだけ!の時間帯である、午後8時~午後10時迄の時間帯が、一番、多い時間帯」でした。
その為も有り、「私は、怖い内容のゲームソフトを買う事は、ほとんど、有りません」でした。
「私が好きな内容のゲームソフト」は、「シムアースや、シムシティの様な、育成もののゲームソフト」と、「恋愛もののゲームソフト」、「ファイナルファンタジー6の様な、ロールプレイングゲームソフト」、「ぷよぷよや、テトリスの様な、パズルゲーム」が、「私は、とても大好き」でした。
「私が好きなゲームソフト」は、「私が好きな本」と、だいぶ近く、「当時の私が何が好きか?が、色濃く反映された商品選びに成っている」と、思います。
私にとって、「私が長く愛用するものは、その時点での私が、一番、何が欲しいと感じるか?が基準に成っている」ため、「私自身が嫌いなものは、どうしても、欲しくない!」と、感じてしまいます。
私にとって、「その時点での私の買い物」は、「その時点での私が欲しいと感じるもの=その時点での私自身が好きなもの・あるいは、その時点での、私が必要としている何か・その時点での私が体験してみたい何か・その時点での私が新しく出会いたい何かが基準に成っている」為、「ゲームの様に、私の自由時間の間にしか、実行できない事は、どうしても、自分自身が心底、欲しい!と、感じているものや、自分自身の好きなものにしか、エネルギーを注げません。」
私にとって、「ゲームをする時間」は、「私自身に、比較的自由に使える時間が少しでも出来た時であり、私自身がホッとしたい!と、心底思っている時でもあり、私が、何かからの気分転換をしたい時でも有るから」です。
「自分自身が、普段の生活で、ストレスを感じている時」に、「ご自分自身の嫌いな内容のゲームに、自分がゲームをするためのエネルギーや、ご自分が嫌いな内容のゲームに、専用の時間を使う気になれますか?」って、事ですね。
だから、「ある意味、私が好きで読んでいる本の内容と、私が好きでしているゲームソフト内容が、同じタイプだとしても、ある意味、当然の結果」なのです。
その理由は、「自分自身が、心底欲しい!と、自分自身が感じているかどうか?を基準に選んでいる」から・・・。
「こんまり流片付け」の中に出てくる、「ときめきを基準に、残すものを選ぶ!」と言う方法は、「分かりやすく言うと、普段の自分自身が、一体、何に興味を持っていて、普段の自分自身が、一体、何を大切に感じているか?と言う事」です。
逆に言うと、「普段の自分自身が大切に思っていなかったり、普段の自分自身が興味のない何かに対して、それを、大切に思ったり、それに対して、興味を持てるか?って、事」ですね。
「私は昔から、片付けが下手」なので、「時々、片付けに関する本を買っては、片付けの勉強をしています」が、「片付けの本を読んでいて私が思う事」は、「たいていの人は、ご自分が持っているものに対して、なんで、自分自身がそれを手に入れたのか?」と、向き合わずに、「部屋を散らかす=部屋を散らかしている根本原因となる物質=部屋を散らかしているもの=部屋をきれいにするためには、手放すべきもの=憎らしい物質!」と、判断した結果、「ご自分が手放すべきもの=捨てるべきもの=ゴミ!と、判断している」のでは無いかと、私は思います。
その結果、「ご自分自身が持っていたものを捨てる」時、まるで「憎々しいものを手放すときの様に、いかにも憎らしいものが、大量に自分の部屋に何時までもある!と言う感じの態度で、物を捨てている人ばかりなのではないかな・・・」と、私は、つくづく、感じてしまいます。
「私は、基本的に、こんまり流の片付け方法には賛成です」が、私には、どうしても、受け入れがたい、片付け方法」が、有ります。
それは、「本と書類に関する項目と、思い出のものに関する項目と、季節に関する項目」です。
理由は、「私は、昔から、本を読む事自体が大好きなので、私自身が、心底欲しい!と、思って、買った本ばかりなので、こんまり流の片付け方法で、私の部屋にある本の数が、少なくなる!とは、到底思えませんし、無理ではないかな・・・」と、思ってしまいます。
それから、「書類について」ですが、「私の部屋に有る書類」は、「どこかからか貰って来た紙類だけでは有りません。」
理由は、「私は昔から、文章を書く事自体が大好き」なので、「私の部屋には、私自身が書いた、色々なメモを始めとする色々な書類」が有ります。
私は最近、「私が学生時代に成りたかった職業の中に、小説家や、作家に成りたかった!と言う事実」を、思い出しました。
「作家」も、「小説家」も、「文章を書く事を、仕事にしています。」
まして、「ご自分自身が書いた文章を、いくら、場所を取るからと言って、全捨て!なんて、出来ません。」
だから私は、「片付けが下手なくせに、書類だけは、自分自身がこれなら、キチンと書類を整理できるし、キチンと、書類を綺麗に片付けられる!と、言う方法を、自力で見つけてしまいました。」
「その方法」とは、「私お気に入りの、A4バインダーと、ルーズリーフを使った、片付け方法」です。
私は、「昔から、誰かに決められた方法」を、「そっくりそのまま実行しようとすると、必ず、失敗してしまいます。」
それは、「その方々にとっては、理想の方法」なのでしょうが、「私が誰かに決められたことを、そっくりそのまま実行しようとすると、必ず、長続きしません。」
「その根本原因」は、たぶん、「その時点での私がやりやすい!覚えやすい!と、感じないから」かも知れません。
私は、「昔から、自分自身が覚えやすいこと、その時点での、私がやりやすい事、その時点での、私が認識しやすい事と、その時点での私の妹にとって、理解しやすい事・その時点での私の妹にとって、認識しやすい事・その時点での私の妹にとって、興味の有る事を中心に、話題にする事を大切に生きてきました。」
「そうしないと、どんなに、私の為に成る情報」でも、「その時点での、私自身の身につかないから」です。
「そうしないと、その時点での私」が、「どんなに一生懸命、覚えよう、学ぼう、努力しようと思い、実行しても、必ず、いつも、失敗してしまいます。」
「私が、何かに対して失敗する理由」は、「私自身に、実行する気が無いからでは有りません。」
「私自身が、何かに対して失敗する時」は、「私自身に、努力をする気が無いからでもありません。」
「私自身が、何かに対して失敗する、一番の理由」は、「その時点での私にとって、覚えにくい事、その時点での私にとって、実行しにくい事、その時点での私が、認識しにくい事が、根本原因」です。
その為、「その事実を知らない方々」は、「お前にやる気が無いからだ!とか、お前は、努力をする気が無いからだ!とか言って、私の事を攻めまくります。」
ですが、「その時点での私に、実際に起こっている事は、違います。」
「その時点での私」にとって、「覚えやすい事・やりやすい!と、感じる事・その時点での、私にとって、認識しやすい事」なら、「私に教えて下さる内容が、私自身の身につく様に成って来ます。」
つまり、「私が誰かに教わった内容が、私自身の身につくかどうか」は、「その内容を教えて下さる方々がの教え方が、その時点での私にとって、非常に分かり易い内容なら、すぐに覚えます」が、「その時点での私にとって、非常に分かりにくい内容」であれば、「いくら、私自身の為に成るようなタイプの教えでも、私自身の身につく事は有りません。」
つまり、「私自身が、何かを覚える時に必要な事」は、「私の教育者側が、その時点での私にとって、理解しやすい話し方をなさっているかどうか?」で、決まります。
その為、「通信教育にしろ、教育施設での学びにしろ、私の場合は、その時点での私にとって、理解しやすいかどうか?」で、「その時点での、私の学びが成功するかどうかが、決まってきます。」
その為、「私は、何かを本気で学びたい!」と、思ったら、「その時点での、私にとって、必要な情報を教えて下さる方々の中から、その時点での私にとって、理解しやすい内容で話すタイプの方々かどうかを、見極める必要」が、有ります。
だから、「その見極めがキチンと出来ていなければ、私の場合は、いつも、努力するだけ無駄!と言う結果に、成ってしまいやすい」です。
だから私は、「その時点での私にとって、私自身がキチンと、その時点での私にとって、理解しやすい内容で話すタイプの方々かどうか?の見極め」は、「私が、何かを本気で学ぼうとする際、絶対に必要な作業」と、成って来ます。
私は、「私が山口県入りする、ずっと前から、私の教育者は、自分で探す!と、決意して以来、私の為の教育者をずっと、真剣に探して来ました」が、「その根本的な理由」は、「その時点での私にとって、理解しやすい内容で話すタイプの方々かどうかを見極める必要が有った」からです。
「この世には、色々な情報が飛び交っています」が、「私にとって重要」なのは、「その時点での私にとって、必要な情報であるか?と、その情報の信ぴょう性、その時点での私にとって、ためにる情報かどうか、そして、その時点での私にとって、ためになる情報である場合、その時点での私にとって、理解しやすい内容で話すタイプの方々かどうか?」で、判断します。
それに対して、「私以外の方々が決めた方法で、私自身が従わなければならない」場合、「私はいつも、何かを学ぶのに、とても時間がかかってしまう事が多く、私はいつも、やっとの思いで学ぶべきことを認識することが多いため、私はいつも、何かを学んだあとは、精神的に疲弊してしまいます。」
その為、私はいつも、「何かを勉強した後」は、「必ず、私自身の疲れを取る時間と、私自身の疲れをとる方法を確保」しなければ成りません。
もし、これが「学校での学び」なら、「いつも、キチンと、決まった休み時間が有ります」が、「家の中での学び」の場合、「毎回、自分自身が意識して、キチンと、自分自身に休み時間を与えてあげなければ成りません。」
その為、「私は、キチンとした、教育施設での学びの場は、とても、ありがたいもの!だと、認識出来る」様に、成ってきました。
そして私は、「キチンとした教育施設での学びの場」は、「人類が存続する限り、例え、形が変わっても、絶対に無くしてはいけないもの‼」だと、私自身は、思っています。
「人類の学びの為の方法」は、「時代によって、多少変わっていくのは、仕方ない!とは思います」が、「時代が変わったから」と言って、「人類の学びの場が完全になくなることは、有ってはならない、とても大事なものである!」と、私自身は思っています。
「人類が学ぶ事を止める事、それはすなわち、人類のすべての可能性を閉じる事に等しい‼」と、私は、思います。
「学生」は、「お勉強をする事自体が、お仕事」ですが、「社会人」も、「一般の方々」も、「何かに対する学びは、必要」だと、私自身は思っています。
「自分自身が、心底、何かを覚えたい!と、本気で思っている時の学び」は、「とても楽しいもの」だからです。
「学生」は、「お勉強をする事自体が、お仕事」なので、「学校での学びそのものを拒否する事自体は、許されません」が、転校をしたり、通信教育と言う方法を使ったり、今なら、オンラインを使った通信教育と言う方法を使って、お勉強をするのは、有り‼だと、私は、思います。
「社会人」や、「一般の方々」は、「お勉強をする事自体が、お仕事では無い」為、「本来、お勉強をしなくても許されます」が、「自分自身の将来と、自分自身の可能性を永遠に閉じたくない」のであれば、「自分自身が興味を持っている事や、自分自身が心底、学びたい‼と、思っている事」については、「自分自身が、自分自身のペースでお勉強をしてもいい‼」と、私は思っています。
ですが、「私達は、機械では無い」為、「一定時間、何かをすると、疲れてしまう時間帯」が、来ます。
「その時に重要」なのは、「自分自身で、必要な休み時間を、必要なだけ、確保する事」です。
「今の世は、コロナウイルスの影響で、オンライン化される事が多く成って来ている」と、思いますが、それはつまり、「自分自身の意志で、自分自身の為の、休み時間そのものを、自分自身の為に、確保しなければならなく成って来ている!と言う事」です。
皆様は、「コロナウイルスによる、オンライン化」を、どう、思っていますか?
「私自身は、基本的に、コロナウイルスがどうとか、オンライン化がどうとか自体には、興味は有りません。」
ですが、「コロナウイルス」については、「この世に新しいタイプの病気が、また一つ増えたなぁ・・・とは、認識しています。」
そして、「オンライン化」については、「また一つ、この世に新しい考え方が、増えたなぁ・・・とは、認識」しています。
ですが、「何時の時代にも、新しい病気は必ずどこかで、発生しているもの」だし、「オンライン化の様な、新しい手法も、人類が存在し続ける限り、必ずどこかで、新しい手法も、生まれます。」
「私にとって、コロナウイルスも、オンライン化も、それ自体には、興味は有りません。」
ただ、「それが存在する事によって、私達自身の生活に、どういう影響が発生するのか?の方に、興味」は、有ります。
「昔から病気ばかりしてきた私」にとっては、「どんなに恐ろしい病気も、所詮、単なる厄介な病気の一つである」としか、認識していません。
ですから、「私にとって、コロナウイルスの様な、厄介な病気」は、「一日も早く、無くなればいいのにな・・・」としか、思えません。
「オンライン化」については、「新しい手法が存在する事によって、私達自身の生活が、より良い方向に行って下さる方法であれば、私自身としては、大賛成」です。
ですが、「全ての分野に、オンライン化を強制する事自体は、止めて欲しい」です。
「人類が、人類の為に作る物の全て」には、「向き、不向きが有るから」です。
そして、「機械化出来る事と、出来ない事だって、有ります。」
「人類の作る物の全て」には、「必ず、どこかに、限界や、無理が生じます。」
そして、「それは、事実」です。
「神仏が創造なさるもの」には、「必ず、それが一番、自然と調和出来る様に、それが永続する様に作られています」が、「人類が作る物」には、「自然と調和出来ないものが多いうえ、人類が作る物には、必ず、限界が有ります。」
そして、「それ故に、人類が作る物には、必ず、寿命が有ります。」
そして、「人類が作った物の寿命が来たら、必ず、ゴミとして、廃棄されます。」
そして、「ゴミとして廃棄された全ての物質達は、たいていの場合、自然界に悪影響を与えます。」
「日本人は昔、エコロジーと言う言葉」は、「知らなかった時代が有りました」が、「当時の日本人は、まさに、エコロジー的な生活を、ご自分達で、実践しながら、生きていた時代が有りました。」
それに比べて、「21世紀の世を生きている、私達、現代人は、どうでしょうか?」
「エコロジーと言う言葉を使っていながら、全然、エコロジー的な生活が出来ていない」とは、思いませんか?
私は昔、「父方の祖母が、ご自分の家で、一生懸命、ご自分自身で、色々なものを作ったり、色々なものを自力で直していたりしていたのを見て、お婆ちゃんって、凄いんだな~、何でも、出来ちゃうんだ~‼と、本気で思っていた」事が、有ります。
今は、父方の祖父母も、母方の祖父母も、既に、私が山口県入りする直前までに亡くなってはいますが、その頃の事を、私はまだ、覚えています。
ですから私は、現代人も、かつての父方の祖母の様に、何でも、自力で直せる方法を、改めて入手するべきだと、私は、思います。
話を元に戻すと、今回のテーマは、「2020年の冬」です。
私は、今年の年末年始の帰宅を予定してはいましたが、最近、母に、コロナウイルスの影響だけではなくて、これからの世の中、物騒な世の中に成りそうな気配が有るから、今年の年末年始の帰宅を止める様にと言われてしまい、せっかく、高いお金を出して飛行機のチケットを取ったのに、私が帰宅しても、母達が喜ばないのであれば、私は、実家に帰るのは、無意味だと思う様に成りました。
ですので、私は、今日、今年の年末年始の飛行機のチケットの予約は、キャンセルしましたので、山口県下関市内で、過ごす事に、成ると思います。
今の私達に、余計な出費は、慎まなければ、成りませんから・・・。
それに、無駄な出費に対して、お金を使うより、今の私自身に対して、もっと、価値のあるものに対して、不要になったお金を使う方が、よっぽど、私自身の為にもなるし、私の手元から出て行ったお金自身も、喜んでくれると、私は思います。
今の私のお金の使い方は、そう言う使い方です。
それが例え、私のブログを読んで下さる方々ご自身の、お気に召さない方法だったとしても・・・です‼
それが、私です‼
それが、今の私の考え方、です‼
そして、それは、真実です‼
話を元に戻すと、今回のテーマは、「2020年の冬」です。
「冬」と言う事は、「今の季節が、冬」だと、言う事です。
「今が冬」だと言う事は、当然のことながら、「一年の中で、一番寒い季節がやって来た」と、言う事です。
皆様は、今、どんな服装をしていますか?
「私は、冬生まれのくせに、昔から寒いのが苦手で、少しでも、冷たい風にあたってしまうと、私は子供の頃から、良く体調不良に成ってしまっていました。」
その為、私が親元に居る間は、良く、昔から、私が風邪をひかないように、色々と工夫をしてくれたり、私が風邪をひかないで済む様にする為に、必要な対策は、毎年、キチンとしてくれていました。
私が静岡県下田市に行った後でも、母達は、子供の頃から風邪をひいたり、お腹を壊してしまいやすかった私を気遣い、常に私が寒い思いをしないで済むような対策を、毎年して下さっていました。
「日本人は昔から、子供は風の子元気な子!と言う言葉と、風習が存在します」が、「その言葉に反してしまっていた子供が、子供の頃の私」でした。
「この世の中には、何にでも、例外というものは、存在する」のです。
その為、「ご自分自身が理解出来ないからと言って、他人を疑ったり、他人をむやみやたらと、攻撃する為の判断材料にしてはなりません。
何故ならそれは、他人に対する思いやりが無いから」です。
「他人に対して、本当に、思いやりの心が存在する」のなら、「例え、他人を疑ってしまったとしても、それが理由で、他人を直接攻撃する気持ちなど、最初から生まれません」し、「例え、他人を攻撃したくなる気持ちが、その人自身の心に生まれてしまったとしても、攻撃したい!と、感じてしまった人間に対して、他人を思いやる心が存在するがゆえに、本気で、その人を攻撃する気持ちには、本来、なれないから」です。
「他人に対する思いやりの心」さえ有れば、「この世に存在するほとんどの争い事は、最初から、存在しない」のです。
それなのに、「この世界に争いごとが存在する」と言う事は、「他人に対する思いやりの心が、現存する人類の心の中から、消えつつある‼」と、言う事です。
「私のブログを読んで下さっている皆様方は、この事実を、どう、判断なさいますか?」
やはり、ご自分自身が、私を理解できないがゆえに、私の事を直接攻撃したくなっていますか?
それとも、ああ、やっぱり・・・と、感じたでしょうか?
それとも、やっぱり、私の事を無視する!と、決意なされたでしょうか?
私自身としては、どちらでも構いません。
何故なら、「それを選ぶのは、私のブログを読んで下さっている、読者の皆様方です」から。
ただ、「それを判断なさる時に、気を付けて欲しい事が有ります。」
それは、「ご自分自身の選択肢によって、私のブログを読んで下さっている方々の、将来に直結する判断に成ってしまうかもしれない‼」って、事です。
日本の現在の法律では、他人を攻撃したら、それなりの処罰を受ける事に成ります。
それは例え、個人レベル、会社レベル、国レベル、どれでも、同じです。
したがって、「もし、誰かが、誰かを殺したことによって、死刑判決を受けたとしても、人間が人間を殺したのだから、ある意味、仕方ありません。」
ですが、「本来、どんな理由があったとしても、むやみやたらと、他人を攻撃してはならない」のです。
「戦争は、悲劇しか、生みません。」
ですが、「たとえ、戦争まで行かなかったとしても、争い事は、争い事です。」
「人間が、人間である限り、出来るだけ、平和的な解決策を、模索しなければ成りません。」
「この世に存在する、ありとあらゆる宗教に共通する考え方は、神仏は、むやみやたらと、他人の命や、他の動物達の命を奪ってはならない‼と、教えている」と、私自身は、思っています。
何故なら、「本当に聖なる存在」なら、「ありとあらゆる命が、愛しくて愛しくてたまらない‼と、感じている筈」だからです。
どうして、「他人の命や、他の動物達の命が、愛しくて愛しくてたまらない‼と感じている存在が、他人を攻撃しようなんて、考えられる」のでしょう。
どうして、「他人の命や、他の動物達の命が、愛しくて愛しくてたまらない存在なら、誰かを殺しても平気‼なんて、考え方が出来る」のでしょう。
それは、「愛しいと言う言葉」には、「愛」と言う、漢字が含まれている通り、「他人を愛する心が、存在している」からです。
「本当に、愛にあふれた存在」が、「誰かを攻撃する気持ちになんて、成れますか?と、言う事です」ね。
「本当に、愛にあふれた存在」が、「誰かが、誰かを殺そうとする現場を見たら、怒りより先に、悲しみが先に立つ‼」と、私は思います。
「私の場合」は、「怒りより先に、悲しみの方が先に立つ事も有ります」が、「たいていの場合は、・・・これだから、人類は、低レベルなんだな・・・と、認識する方が、先に成って」います。
そして、「これだから人類は、何時まで経っても、進歩も発展もしないんだな・・と、更に認識する羽目に成ります。」
そして、「人類に対して、呆れと、怒りを感じる羽目‼に成ってしまいます。」
「私のブログを読んで下さっている、読者の皆様方は、どう、認識なさっていますか?」
ですが、「ご自分が、誰かに直接攻撃されそうなときは、そうも言ってられません」よね。
「では、どうすればいいのか、考えたことは有りますか?」
「私なら、直接攻撃されそうな時は、とりあえず逃げるか、防御するか、回避します」が、「可能な限り、平和的解決の道を、出来るだけ模索します。」
ですが、「どうあっても、戦いの道しかついていない時」は、「仕方なしに、戦う事も有るかも」知れません。
ですが、「戦争も、戦争までいかない争い事も、基本的には、人間同士が争っているだけ」なので、「本来は、どんな争い事も、争い事を終了させること自体は、本来、可能なの」です。
ただ、「争い事に夢中に成っている方々ご自身が、その事実に気づいて、自力で、平和的解決をしようとなさるかどうかで、結果は、変わってきます。」
私は、「国のトップたるものは、トップであるがゆえに、どんな争いごとも、可能な限り、平和的解決を、模索してほしい‼」と、本気で思っています。
「国のトップの方々なら、国民が知らない情報まで、入手出ている筈」です。
そして、「それ故に、一般の方々が思いつかない、より良いアイデアが出て来る方々ばかりであると、私は子供の頃、信じていました。」
ですが、「国のトップレベルの方々であっても、どうしようもない現状も有るかも知れません。」
ですが私は、「国のトップレベルの方々には、どうしても、平和的解決を諦めて欲しくは有りません。
国のトップレベルの方々の争い事は、戦争に成りやすい」からです。
私が生まれた時は、父親は、既に国家公務員でした。
「その為、私は、この世に存在する全ての国家公務員の方々」には、「一般の方々が納得するような、税金の使い方や、一般の方々が思わず尊敬してしまうような、そんな存在に成って欲しい」のです。
そうすれば、「この世に存在する日本国民のほとんどは、日本政府と、日本の政治家の方々と、日本の国家公務員に対して、不満を持つ必要は無くなる」でしょう。
「そして、それこそが、私が日本政府と、日本の政治家の方々と、日本の全ての国家公務員に対する、願望です。」
たとえ、「今すぐ全てを変えられなくても、少しずつ、現時点で出来る方法で、確実に、良い方向へ変えて行けば良い」のです。
「そうすれば、いつか必ず、目に見えて変化が現れる時期が、必ず、来ます。」
私は、「日本政府なら、日本の政治家の方々なら、日本の国家公務員の方々が、本気でそう思って、本気で実行なさるのなら、必ず出来る‼」と、思います。
私は、「日本政府と、日本の政治家の方々と、日本の国家公務員の方々と、日本国民との間に、余計な争い事が起こってしまうのを見るのは、私は、とても悲しいし、とても辛い事」です。
ですが、「日本政府や、日本の政治家の方々や、日本の国家公務員の方々に、それが出来ない現状に有るのは、私自身としては、とても悲しい事」だと、私は、思っています。
私は、「日本政府なら、日本の政治家の方々なら、日本の国家公務員の方々なら、必ず出来る‼」と、思います。
そして、「それこそが、国のトップたる者達の務め」だと、私は思います。
私の長い文章のブログに、最後までお付き合い下さって、本当に、ありがとうございます。
私のブログに、少しでも興味を持って下さった方々、本当に、ありがとうございます。
そして、私の長い文章のブログを毎回、読んで下さっている方々、いつも最後までお付き合いいただき、本当に、ありがとうございます。
また、私のブログを最後までお読みいただける様、努力いたしますね♡
えりりん
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